指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

文化は形にしないとダメだ!

2015年10月07日 | 演劇

昨夜は、神奈川の県立図書館を考える会の定例会があったので、県立川崎図書館に行く。

             

 

ここは日本で有数の産業資料図書館なのだが、県立図書館の再編成の中で、現状では川崎市溝口のKSPへの移転が計画されている。

だが、KSPに県立川崎図書館を収容するような余地はなく、最終的には一部をKSPに移転させて残りは、紅葉ヶ丘に収容ということになるのだろうと我々は危惧している。

この夜は、記者懇話会とのことで、毎日と東京新聞の記者が、わざわざ横浜から来てくれたとのこと。

館内を岡本さんたちが説明している間、私は映画会社の社史を調べてもらい、日活、東映、そして野内映画社の社史を読む。

野内映画社など、聞いたことがないが、予想どおり映画館の50年史で、藤沢オデオン座等を経営していた会社のものだった。

「日活100年史」は、2013年の日活100年に出されたもので、資料も多数収録されていてよくできているので、借りることにする。

会の終了後、岡本さんはご自身の会社の決算事務があるとのことで横浜へ帰られる。

残った、福富さん、林さん、塚田さん、田子さん、高橋さん、そして遅れて来られた石黒さんらと近所のソバ屋で飲む。

福富さんと塚田さんからは、今話題となっている九州の武雄市や海老名市の「ツタヤ図書館」についてお聞きする。

マスコミでは肯定的に報道されているようだが、極めて問題であることをお聞きする。

そして、移転が問題になっている県立川崎図書館だが、たとえ図書、資料が分散しても機能が果たせれば、それでよいじゃないかと言うご意見もあるだろう。

だが、昔から私は思っているのだが、文化施設は形ができ、人々に見せないとダメなのだである。

なぜなら文化は本来目に見えないものなのだから、形を作って見せ「これだ!」としないと誰も理解できないのである。

その証拠に、古来から現在の新興宗教に至るまで、必ず宗教団体は、本尊を安置し、壮大な本堂を作る。

それは、宗教というものが、本来目に見えない文化であるからなのだ。


なかなか興味深い位置だったと思う 山内久氏

2015年10月07日 | 映画

以前、山内久氏脚本の『水溜り』について、私は次のように書いた。

 

神保町シアターの女優特集で一番見たかった映画の一つ。
1961年、脚本山内久、監督井上和男で、主演は岡田茉莉子、川津祐介、倍賞千恵子、三上真一郎らである。
原作が丹羽文雄なので、花柳界映画と思っていたら、完璧な貧乏リアリズム作品で驚く。
東京の下町、松竹が大好きなガスタンクが見える千住あたりの、清川虹子・川津祐介・岡田茉莉子一家、さらに倍賞千恵子と桜むつ子・浜村純一家、また近所の三上真一郎ら貧乏な人々の話である。

岡田と清川は、零細な鉄工所で働いているが、それは岡田が工場の専務西村晃の妾をやっているからである。
そこの臨時工の三上や倍賞は、組合を作ろうとしてクビになり、岡田と清川も辞めさせられる。
川津は、西村を脅して金を取るほか、大学では様々な方法で儲けている。
この屈辱的な青春と言うのは、大島渚の『青春残酷物語』の川津の延長線上にある。
倍賞は、クビになると、下半身を見せ写真を撮らせて金をもらうバイトをする。
その相手が幸せそうな家族の渥美清で、唯一笑える場面だが、さすがに渥美は面白い。

岡田は、以前から惚れられていた南原宏治の愛人になり、マンション暮らしになる。
川津にも金銭的と同時に就職の世話をすると言うが。川津は断固拒否する。
三上の父親の浜村純が交通事故でケガしたとき、倍賞は再度下半身露出のバイトをする。
だが、そのときは男に強姦されてしまい、やはり渥美は良い人だったことになる。
川津も金儲けに、友人の田中晋二と工場の銅製品を盗み売ろうとするが、ヤクザに足元を見られケンカで半殺しの目に遭う。
最後、倍賞と川津は貧しくても真面目に生きてゆくことを暗示して終わる。

ここには、『下町の太陽』の山田洋次・民青路線の萌芽も見える。
全体に、大島渚のヌーベルバーグ路線、山田・民青路線、さらに井上の師匠の渋谷実の皮肉さ、戦前からの松竹の庶民映画など、松竹大船のごッた煮的世界である。
むしろ逆かも知れない。
井上和男では未分化だったこれらの要素が、大島渚や山田洋次らで明確になってきたと言うべきだろうか。

 

井上和男も、山内久らと同様、小津安二郎、木下恵介らの松竹大船から出て、前世代とは違うものを作ろうとした人たちだったと思う。

簡単に言えば、戦中派としての位置から、日本の社会と人間を描こうとした。

だが、結論的に言えば、井上和男の作品ではあまり上手く結実しなかったと思う。

それを集大成したのは、言うまでもなく日活に移籍した今村昌平である。

山内久脚本の『豚と軍艦』をはじめとする今村昌平作品は、日本の戦後映画の頂点だったと思う。

また、今村昌平の『復讐するは我にあり』の脚本を書いた馬場当も松竹大船の脚本家であり、松竹大船は大きな役割を果たしたことは間違いない。

その意味で、山内久氏らの業績は大きなものがあったと言えるだろう。

ただ、今村昌平となぜか別れた後、山内久氏は、『若者たち』以下の日共民青的な路線に行ってしまったのは、もちろんいろいろな理由があったと思うが、我々にとっては基本的に理解しがたいことだった。