図書館カード更新の必要があったので、横浜市中央図書館に行き、ついでなので、去年死んだ根津甚八が出ている、『影武者』を見る。
4年前に『黒澤明の十字架』を書くときに、何度も見ているが、久しぶりに見ると非常につまらない。
言うまでもなく、勝新太郎への当て書きの脚本なので、「ここは勝新ならば面白いが、仲代では面白くないなあ」と思うシーンばかり。
要は、愛嬌の差であり、これはいかんともしがたい。
小物の泥棒の武田信玄の影武者が、前半は本物になるように努力する筋なので、少しも面白くないのだ。
そして後半の徳川家康や織田信長との合戦になると流石に本物の馬が疾走するので、多少面白くなる。
だが、影武者は愛馬から落ちて、上杉に切られたはずの背中の傷がないことが側室らに見つかり、偽物と武田勢を追われてしまい、その姿には悲しみしかない。
そして、武田騎馬隊は、織田・徳川連合軍の鉄砲隊に全滅する。そこに自らの死を覚悟して影武者は戦場にわざわざ出て行き、銃殺されてしまい、その体は河を流れる。
一体、この作品の意味は何で、なぜ黒澤は、影武者のことを主題にしたのだろうか。
黒澤明は、誰の影武者だったのだろうか。
答えは至極簡単である。27歳で愛人と心中してしまった黒澤明の兄で、優秀な若手の活動弁士だった須田貞明こと黒澤丙午しかいないだろうと思えた。
寧ろ勝新だとあの格式ある美しい世界は表現しきれません。
ただ黒沢と勝新がマッチしなかった、それだけです。
「乱」は監督にとってファッションだったのではないかと思います。
本作は、影武者の苦しみとか、闇の部分が描かれ、勝頼の
プレッシャーなどもあり、実際的な物語が多かったと思います。
身分制度の高い時に、泥棒に武士が頭を下げるとは思えません。
例えば楓の方(原田美枝子)に知らせを届けにくる井川比佐志のシーンは何度稽古を重ねても上手くいかない。原田はOKなのだが井川が上手くいかない。黒澤も井川と一緒に演技をやってみる
。役者と演技をやっている黒澤の楽しそうなこと。別のシーンでは、侍が楓の方(原田美枝子)に伝令で走りこんで来るシーンだが、何度やっても侍役がセリフが上手くできない。黒澤も侍と一緒になって走ってセリフを言ってみる。黒澤「駄目だよ新劇の役者なんだから、こんな簡単なセリフが出来なくては」。スタッフ・キャストと一緒に芝居を作るのが楽しくて仕方がないようだ、おもちゃを与えられた子供のように。体力と知力がある方です。「乱」は撮影開始が1984・2・1、1985・5・21完成プレミア上映。気が遠くなる作業だ。黒澤は役者の芝居がわかる監督だ。ドラマがわかる?難しい。画が撮れているから評価が高い。「乱」は好きです。
僕が御殿場に出向いたときに4億円の城を作っていました。一回で燃やす城です。
フランス資本で撮ったので、アメリカほどではありませんが、契約に拘束されていて、効率的に撮っていました。
晩年は、周囲には黒澤家しかいなくて大変だったのだなあと思いますね。