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指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

北も、南も

2014年04月19日 | 事件

こういうことはあまり書きたくないのだが、思い出したことがあるので、書く。

韓国の珍島近くで大型フェリーが転覆し、多くの死者、行方不明者が出ている。

原因は、まだ不明だが、もともとは日本のフェリー船だったものを購入し、改造して使用していたようだ。

改造というのがすごいもので、乗船者数と貨物の積載量を増えるように作り替えた。

そのために船の重心が上になってしまい安定性を失ったいたことも原因の一つであるようだ。

昔、作家関川夏央の本で読んだことがあるが、北朝鮮と日本との連絡船にマンボンギョン号という船があり、それも元は日本のフェリー船だった。

だが、故金日成首領様のご指導で、

「もっと多くの人民が乗れるように」と船を改造して乗客数を増やしてしまった。

すると当然にも重心が上がってしまい、船は安定性を失い、冬は強い北風が吹く北朝鮮の港に入港できなくなってしまったそうだ。

この話を思うと、どうも北も南も、その発想はよく似ているように思える。

と言って私は韓国や朝鮮の人や文化が嫌いな人間ではない。むしろ好きな方で、昔から韓国のレコードは沢山持っている。

中で一番の珍品は、浅草の韓国物産店で買ったカセットで、袈裟を被ったきれいな女性が祈っているのがカバーだったもので、

「あんたは写真で選んでいるね」と店の人に言われた。

聞くと、民間信仰のようなシャーマンの祈りと打楽器の伴奏が延々と続くものだった。

韓国は今でも民間信仰が盛んで、今回も多くのシャーマンが行方不明者の生存を祈っていることに違いない。

私も、死者のご冥福をお祈りしたい。


3年前は

2014年03月11日 | 事件

今日の3年前は、東日本大震災が起きた日である。

あの日、そんなことが起きるとは何も知らず、私は午前中職場の図書館に休みを取り、横浜南税務署に確定申告を出しに行った。

横浜南税務署は、以前は、その名のとおり南区の真ん中の蒔田にあり、そこに出しに行ったことも何度かあった。

だが、20年くらい前に金沢区の福浦に移転し、南区の跡地は南地区センターや公園になっている。

2011年3月11日の午前中に確定申告を出し、午後は栄図書館に戻っていた。

そして午後2時45分すぎ、私はカウンターにいたが、急に大きく揺れだし、

「これはまた脳梗塞が起きて倒れるのか」と思った。

だが、地震だった。

3時半すぎには、20人くらいいた利用者に臨時閉館を告げて館を閉めた。

そこからが実は大変だった。

まず、電話ができない。

栄区は、東電の区域では横浜ではなく鎌倉市のエリアになっているらしく、30分ほどで停電になってしまい、電気のリレー機で動くようになっている電話は掛けることができなくなつた。

後に、1本だけ普段は館の案内電話が局と直接通じている線だとわかったが、そのときは知らず、携帯電話で中央図書館と連絡しても、もちろん繋がらない。

そこからいろいろあったが、大船から始発のバスになんとか乗り、3時間近くかかって南区の吉野町に着いた時は、10時半を過ぎていた。

遅い食事をして部屋を開けるとびっくり、本箱の上段に置いてあった本が全部落ちていた。

また、CDラックが倒れていて、全部飛び散っていた。台からテレビは落ちてアンテナ線等でやっとつながっていた。

電子レンジが冷蔵庫から落ち、冷蔵庫のドアが開き、少し傾いていた。

落ちていた本等の整理には数ヶ月かかり、未だにCDには、どこに行ったのか不明なものもある。

ともかく正直「参ったなあ」という感じだったが、福島、宮城、岩手の人の比ではあるまい。

今年の今日は、まだ確定申告の書類作成が終わらないので、なんとか頑張って終わるようにすることにしよう。

 


バリも近くなりにけり

2014年02月19日 | 事件

インドネシアのバリ島で、ダイビングに行った方が遭難したことが報道されている。何人かの人が無事に救助されたことは喜びにたえないが。

バリ島は、ダイビングの人気スポットとのことで、今は日本からの直行便もあるようだ。

だが、31年前に私が新婚旅行でバリに行った時は直行便はなく、ジャカルタまで日航機で行った後(それも成田からマレーシアのクアラルンプールまで行き、そこで機体交換してだった)、インドネシアのガルーダ国内便に乗り換えて、やっとデンパサール空港についたのである。

当時、デンパサールでは、クタ・ビーチが中心で、そこに面した、日本の戦時賠償で作られたというバリビーチ・ホテルに泊まった。

島の観光ツアーがあり、中で半日、ヌサドア・ビーチというきれいな砂浜の海岸に行ったが、そこには何もなく、インドネシア人警官が木陰で昼寝していた。

ツアー・ガイドの話だと、

「ここにJALのホテルができますよ」とのことだったが、今はここはすごいリゾート・地域になっているようだ。

デンパサール市内や海岸に行くとオーストラリアやニュージーランドの若者が、木陰で何もせずにゴロゴロしていた。

多分、マリファナを吸っていたのだろうと思う。

 

なぜ、バリ島に行ったかと言えば、1980年代当時、インドネシアのポピュラー音楽のカセットを入手するには、現地に行くしかなかったからである。

この時は、後に日本でもLPが出た、小型ガメランのグループ、ガプーラのカセット等を買い、中村とうようさんにコピーして送った。

                

当時は、そのように誰かが新たに入手した音源を互いによく交換していたものである。

もちろん、妻はインドネシアのポピュラー音楽に大して興味はなかったのだが、次に行ったシンガポールでのブランド品の買物には大いに満足していたようだった。

私は、香水やスカーフが安いと言われても、まったく理解できなかったのだが。

 


村上春樹が柔道の解説?

2013年02月01日 | 事件

随分昔になるが、新聞のテレビ版を見ていて、

「村上春樹が柔道の解説」と出ていて、あれっと思った。

彼が柔道をするの?

だが、よく見ると上村春樹だった。

今、女子柔道の問題で出てきている全柔連の上村春樹(うえむらはるき)会長である。

私は見間違いがよくあるので、常々用心している。


潜伏するときは、人口100万以上の大都市に

2012年06月10日 | 事件
私の大学時代の知り合いで、革マル派の非公然活動家だった奴がいる。
入学当時は、まったくのノンポリだったが、いつの間にか革マルの活動家、非公然部隊の一人になったと聞いた。
私は、もう40年以上も会ったことはないが、20年前くらいに彼に会った男の話だと、すでに革マルもやめていたが、顔面にひどい傷を負っていたとのことで、勿論中核派にやられたのである。

彼の話だと、人口100万人以上の大都市に潜伏すれば、相手の中核派や警察に遭遇することはないのだが、たまたま実家に数年ぶりに電話したところ、そこから探査されて、住所を突き止められて、ゲバルト(暴力)を加えられたのだそうだ。

現在、オウム真理教の元活動家菊池直子の逮捕と高橋克也の逃亡が大きなニュースになっている。
ここで分かるのは、菊池は人口70万人の相模原市、しかも旧城山町の小さいなところに住んでいたので、通報されて逮捕された。
だが、人口150万に近い大都市川崎市に住んでいた高橋は、警察に見つかっていなかったことである。

だから、もし万一、誰かから逃げて、潜伏するような場合には、人口100万人以上の大都市に住まわれることをお勧めする。

オウム真理教、裁判終結

2011年11月22日 | 事件
オオム真理教の裁判が終結した。
彼らが様々なところで活動していたことの結果だが、彼らとは、かなりの場面で遭遇していたことを思い出した。

いつの衆議院選挙のときか忘れたが、横浜の関内駅前でも、奇妙な麻原のお面を被った連中が「ショーコ、ショーコ」と歌っていた。
1991年に、横浜市から派遣されて、当時富士宮にあった通産省系の語学研修組織の財団法人貿易研修センターに行った。

そのとき、オオムは富士山麓にサティアンを作っており、地元の人は「彼らが白服でうろうろしていて気持ちが悪い」と言っていた。
近くには、企業戦士の研修センター「地獄の特訓」もあった。
富士山麓は、もともと一種の聖地なので、創価学会を始め、その他宗教団体の施設が多数あった。

1995年3月20日、彼らが東京で「地下鉄サリン事件」を起こしたとき、私は午後仕事を休み十六代目片岡仁左衛門襲名公演『道明寺』の歌舞伎座の駆けつけた。
『道明寺』は、『菅原伝授手習鑑』の1幕で、菅原道真の木像が出たり、消えたりする「夢幻劇」で、何か狐にばかされたような感じを持ちつつ劇場の外に出た。

すると入るときは気がつかなかったが、歌舞伎座を出ると大騒ぎで、その頃はまだ事件なのか、事故なのか分からず、街頭のテレビでも被害を報道しているだけだった。
家に戻ると、CNNは、化学防護服の隊員を、like a science ficton film と言っていた。
あれからもう16年とは、本当に時の経つのは早いものである。

「原発では随分稼がせてもらいました」

2011年05月08日 | 事件
私の高校の後輩にMという男がいる。
村上春樹の小説『ノルウェーの森』について、「直子のような女が実際にいる」との経験を話してくれた男である。

彼は、都立小山台高校を卒業した後、結局大学には行かず、テレビの小プロダクションから記録映画の監督になり、かなり多くのPR映画を作ったそうだ。
彼に20年くらい前に会ったことがあるが、そのとき彼はこう言っていた。
「今の日本で一番立派な映像ホールがあるのは、原発のPR館で、浜岡原発は私がやった」と。
確か電通からの仕事で、実際は東宝映像で撮ったそうだ。
その趣旨は、原発の意義、効果、安全性等を見学者に見せるものだろうが、こういうところにも映像作家たちは関っていたのである。
原発映画は、人権啓発映画と共に、日本映画界にとって貴重な需要だったのである。

世界貿易センターでランチを

2011年05月03日 | 事件
ビン・ラディンを射殺したとの報を聞き、最初に思ったのは、「本当にまだ生きていたの」だろう。
1991年の9・11から10年である。

あの日、私は倒れて横浜市滝頭の病院にいた。
朝、起きてテレビを見ると大騒ぎをしている。
本当に、映画の特撮のような世界貿易センター崩壊の映像だった。
だが、当然崩壊するだろうなとも思った。
あそこでニューヨーク港湾局を訪問し、その後中のレストランで食事したのだが、その間中揺れているような脆弱性を感じていたのだからである。

先日書いたようにニューオリンズの最後の夜、当時日本郵船の横浜支店長に誘われてホテルのディナー・ショーに行った。
当時、『ミスター・メロデイー』でスターになっていたナタリー・コールだった。
翌日、飛行機に乗ると、マネジャーと二人で、自分でスーツケースを持って同じ飛行機に乗り込むナタリー・コールがいた。
アメリカのツアーは厳しいのだなと思った。

ニューヨークでは、港湾局の他、当時「テレポート計画」で話題だったスタッテン島に行き、さらに船会社も訪問したなど結構忙しかった。
このテレポートなるものは、結局無意味なことが判明したが、当時は新計画と思われていて、横浜でも大々的に「世界会議」をやった。
だが、開催後、高秀市長に「テレポートって何だ」と聞かれ、担当者が答えに窮したという笑話のみが残っている。

この中で唯一の自由行動で見たのは、ブルーノートでのミスター・ハディホーマン、キャブ・キャロウェイのステージだった。
また、現地の代理店の人が連れて行ってくれた日本人女性がいるクラブで話したのは、フランソワ・トリフォーとオスカー・ウェルナーの死だった。
だが、リチャード・ブローティガンの死はどこの新聞、テレビにも出ていなかった。

世界貿易センターは、ニューヨーク港湾局が建てたもので、当然永く所有していたが、1991年当時は民間の不動産会社に売却していたとのこと。
あの頃から、もう10年も経っているのだ。

ビン・ラディンの名も、当初は皆上手く言えなかった。
映画監督の崔洋一が、「ビン・ディラン」と、ボブ・ディランと混同してラジオで話していたのをよく憶えている。
そのビン・ラディンの名を日本人が知って10年が経ったわけである。
テロとの戦いは、これで収束するのだろうか。

K氏の先見の明

2011年05月01日 | 事件
横浜市役所のK氏と言えば、行政職員で最高位まで行かれた方である。
彼が、随分前に、「原発は破綻したシステムなんだよ」と言っていたことがある。
私も同じ局にいて、よく会っていた30年以上前のことである。
そのときは、「やはり元左翼の言説だろう」と思っていた。
だが、今回の福島第一原発の事故を見ると、K氏の先見の明に驚かざるを得ない。

確かに原発の発電コストは安く、CO2の排出量も少ないのに違いない。
だが、今回の事故の大きな影響で見るように、特に日本では、社会的コストは異常に高く、原発の総コストは大変高いと言わざるをえない。

20年以上前に、イギリスで「ウォ-マッド・フェスティバル」を見て、主催者の事務局と話すため、イギリス西部のコーン・ウォールに行ったことがある。
行きは、プリマスまで飛行機だったが、帰りはイギリスが誇るディーゼル特急のインター・シティーでロンドンに戻った。
すると、ロンドンの近くに来て、明らかに原発が車窓から見えた。
一緒にいた田村光男に言うと、
「あれは原発に間違いないな」との答え。
広瀬隆など、「東京に原発を!」を叫ぶ人がいるが、まさにロンドン郊外に原発なのである。

このことを日本に戻ってある国際的なコンサルタントに話すと、
「結局、欧米では最後は金を保険で払って終わりとの考え方があるからねえ」とのこと。
それ以上の精神的補償は、「神の領域でしょうな」であると言う。

それも実に割り切った考え方だと思ったが、今回の被害のあまりのひどさを見ると、逆に精神的補償のしようもなく、「結局は金」というのも正しいかなと思う次第である。

戦時中は、さぞや

2011年03月29日 | 事件
東北関東大震災に対し、仁科明子母子のCFが終わったと思ったら、今度はやたらに「頑張ろうニッポン」とか、「きっと立ち直る」と言った空虚なスローガンの連呼になった。
実に鬱陶しい。

だが、これに対し「煩い」と文句を言おうものなら、まるで「非国民」と罵られそうである。

思うのは、まさに戦争中の、新聞、雑誌、ラジオ、映画等の戦意高揚の絶叫もこんなものだったろうと想像する。
こうした中で、密かにではあるが、その体制を呪詛し、日記に書き付けていた、永井荷風や徳川無声は、さぞや大変だったことと思う。
この孤立に耐えるのは相当につらいことであり、皆に同調して、スローガンを連呼する方が遥かに楽なことなのである。

自然は残酷

2011年03月20日 | 事件
今回の東北関東の大震災を見ると、自然がいかに強烈で、過酷かつ残酷かと言うことが良くわかる。

かつて、「自然にやさしい」と言うキャッチフレーズがよく使われたことがある。
そのたびに、そこには「人間の力は強大で、自然をひどく痛めつけているから、そうはしないようにしましょう」という前提があり、「なんと馬鹿な、自然は本当は非常に恐ろしいものなんだぞ」と密かに思っていた。

今回の大震災で、自然の力の前には、人間と人間が作り出した物など、ひとたまりもないことがよく分かったと思う。
自然は実に恐ろしいもので、その威力の前には人間はきわめて無力なのである。
21世紀初頭に、それが示されたのは大変興味深いことである。

20世紀初頭の日本に起きた関東大震災は、東京から江戸文化の残滓のすべてを消し、新たな昭和の大衆文化と政治を作る道筋を作り出した。
今度の大震災は、21世紀に何を作り出すのだろうか。

こうなれば

2011年03月18日 | 事件
今度の大震災で、停電が行われている。
幸いに自宅は区域外だが、職場は該当していて、昨日の夕方は仕事が大きく低下した。

さて、こうなると促進すべきは、東電の「NAS電池」や東京ガスが妻夫木聡君とで宣伝している「家庭発電」である。
NAS電池は、どういう原理か知らないが、要は大型蓄電池で、夜間等に蓄電し、必要なときに使う。
実は、2002年の「サッカー・ワールドカップ日韓共同開催」のとき、横浜のパシフィコ横浜がメディア・センターになった。
そのとき、「日本は地震国で、地震が起きて停電になったときは大変だ」と言うことで、このNAS電池を数百個臨港パークに置き、非常時に備えたのである。

幸い何も起きなかったが、すでに当時から実用化されていた。
これなら過剰電力の平準化にも使えるので、大変意味のあることらしい。

因みに、NASと言うのは、勿論何かの略語だが、当時の東電の社長の那須氏の名前に因むものでもあったとの話である。
これが、「もっと工場や公共機関等に普及していれば、今回の停電騒動もなかったのでは」と思う。

停電は昔は頻繁にあった

2011年03月16日 | 事件
大震災の影響で、ついに計画停電が、今日の午後、職場がある横浜市栄区でも実施された。
予定の12時20分から20分経過した、12時40分に突然、照明、パソコン、テレビが消えた。
そして、3時35分、今度は一斉に点いた。
この間は、何か落ち着かず、通常の業務が上手くできなかったようだ。

だが、かつての昭和20年代では、停電は決して珍しいことではなかった。
ある日突然、停電になることもあり、台風が来たときなどは、必ず停電になったので、それに備えてロウソクや懐中電灯が一家には必ずあったものだ。
私の親戚は、東京の私鉄の駅前で大きな呉服屋をやっていた。
そして、そこにも停電はしばしば襲った。
だが、客商売であり、停電ではお金もよく見えないと言うことで、そこには停電用のガス灯があった。
停電のときは、ガスで灯りを点けるのである。
明治時代の初期の灯りはガス灯だったのだから、それは普通の技術だったのだろう。
どの程度使用したかは知らないが、店の天井をガスのホースが延々とつたわっていて、その先に大きなランプ状のものがあったことを憶えている。

いまどき日本で、停電とは驚くが、以前横浜の友好都市であるルーマニアの第二、都市コンスタンツア市の歌舞団を招聘したことがある。
丁度、チャウシェスク政権が倒れたときだったが、約10日ほどの滞在中、彼らが日本に来て一番驚いたのは、町に異常に点いている照明だったそうだ。
また、夜中までずっとやっているテレビも驚きで、通訳の女性に聞くと、連中は毎日夜寝ていないとのこと。
テレビが珍しくて寝ずに見ているのだそうだ。

その通訳をやってくれた女性は、父親がある民間組合の幹部だった関係で、ルーマニア政府から招聘されて留学したのだそうだ。
勿論、学費、滞在費は全部タダ。それが魅力で、それほど家に経済的余裕がなかったので、喜んでルーマニアの大学に行ったそうだ。
だが、行ってみて泣いたそうだ。
食い物がお話にならないくらいにひどい。生活水準が日本より遥かに低く、毎日泣きながら過ごしたとのこと。
亡くなられた米原万理氏が、やはり父親が日本共産党の幹部だった関係で、プラハの学校に留学していたのと同じであるが、そんな仕組みがあったとは知らなかった。
通訳の女性の経験では、1960年代のルーマニアは大変ひどい電力状況で、夜になるとすぐに停電になってしまうので、ローソクで勉強したそうである。
将来、今日本の首都圏で勉強している若者は、2011年にはローソクの光で勉強したこともあったな、と数十年後には思い出すだすに違いない。

高齢者消費が日本経済を救う

2011年03月15日 | 事件
どこのスーパー、コンビにに行っても食糧品がない。買いだめしている人がいるのだろう。
よく見ると、米の他、パン、豆腐、納豆、魚など和食関係が多く、高齢者が好むものが多い。

スーパーの開店時間の午前中に並べるのは、働いている現役世代ではなく、高齢者たちである。
朝早く目が覚めた彼らは、戦後の食糧難、石油ショックの買いだめ・物不足を経験した世代でもある。
だから今度の大地震で、彼らが買いだめに走るのは、無理もないのだ。

だが、よく考えれば、異常に貯蓄をしているはずの彼らが今回消費するのは、経済的にはとても良いことである。
買いだめした食糧品はどうなるのか。
たぶん、彼らだけでは消費できず、子供たちへの贈物になるか、腐敗して捨てられるかだろう。

ともかく銀行等に眠っていた貯金が動き、消費されることは良いことなのだ。
環境問題などの愚劣な議論はやめて、高齢者にどんどん消費させることに日本の将来の道があることが、今回の地震で分かった貴重な教訓であるだろう。

向田家にならって

2011年03月12日 | 事件
昨日の地震、職場の図書館にいた。

「これは・・」と思うと、すごい揺れだった。
ただ、平屋2階建ての建物なので、本棚から本や雑誌等が落下することはなく、他に損傷もなかった。
ただ、数分後停電してしまい、それは図書館だけではなく、交差点の信号すら消えていた。
4時前に、暗くなり停電であり、本を読むことも困難になったので、館長判断で臨時休館で、20人くらいいた方には説明してご退館頂き、やっと中央と連絡が取れたので、その旨報告する。

中央図書館では4、5階で本が多数散乱し大変危険なので、3時過ぎに休館したこと、アルバイトは帰し、その他職員は通常通りとの指示を受ける。
停電は直らず、非常用電源も事務室は次第に暗くなる。
職員は5時過ぎに家の遠い人から順次帰ってもらう。
この間、停電なので情報は電池のラジオからのみ。

定刻に図書館を出て、バス亭に行くと、多数の人が歩いてくる。
鎌倉から歩いて来たという人はさすがに疲れ、上大岡行きや桜木町行きのバスを手を上げて止めようとするが、超満員で停まってくれない。
3台過ごして、下り方向のバスを見るとガラガラ。
大船までに行き、そこで始発で乗ることにする。
大船駅周辺も停電で、真っ暗な中、続々と人々が歩いてくる。
桜木町、上大岡行きのバスには百人くらいの列。

なんとか座席を確保できる。
そこからなんと3時間半、お三の宮まで意外にも時間は短く感じられた。

子供らにメールをすると、長女は職場の同僚の実家が会社の近くだったので歩いて行って泊まり、次女は大学が校舎を生徒に開放したので泊まるとのこと。
JRが動いていないので、東京から横浜には徒歩以外帰りようがない。

吉野町の中華料理屋で食事して家に戻ると呆然。
本棚の上から2,3段目まで、さらに本棚の上に積んだ本と雑誌、CDが全部落下していた。
全体の半分くらい。
さらに冷蔵庫が開き、中の物が散乱し、上に置いてあった電子レンジが床に落ちている。

ともかく、落ちかかっているテレビを元に戻すため、本、CDの山を乗り越えなくてならない。
裸足では危険なので靴を履き本の山を踏んで近づく。
そのとき思い出した。

なくなった向田邦子のエッセイに戦時中の東京大空襲の夜のことがある。
3月11日の夜、異常な大空襲に、腹ごしらえを終えると向田の、日頃極めて厳しかった父親は、
「もう今日はいいぞ!」
と空襲から家を逃げるとき、土足で畳の上を歩き回ったそうだ。
そんなときは、物など問題ではない。
その際に最重要な行動を優先すべきなのだ。

本とCDが壊れているかもしれないが、何も全部だめになったわけではない。
その内、少しづつ元に戻すことにする。