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指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

宮城まり子、死去

2020年03月23日 | 大衆芸能
女優の宮城まり子が亡くなられたそうだ、93歳。
私は、2007年9月30日に彼女が、阿佐ヶ谷ラピュタに出た時、つぎのように書いた。




『まり子自叙伝・花咲く星座』
おそらく今の50代以下の人は、女優の宮城まり子を見たことがないに違いない。だが、昭和20から30年代、彼女は、日本の映画、テレビ、舞台、歌謡曲で最も有名な女性の一人だった。レコードでは『毒消しゃいらんかねぇ』が最大のヒット曲だが、『ガード下の靴磨き』も有名である。
彼女の歌の特徴としては、音程が正確で大変パンチがありながら、一種独特の哀愁味があるところにある。その魅力、人を引き付ける力は、美空ひばりに匹敵するものがあった。ただ、ひばりと違うのは、宮城まり子にはクールな知的な味わいがあったことで、これは彼女の弟が作曲家で(映画では池部良の兄に変えられている)、音楽監督だったことによるのだろう。そして、言うまでもなく彼女の生涯の伴侶だったのは、作家吉行淳之介である。吉行は、勿論妻がありながら、宮城に会い「私の人生感のすべてが変わってしまった」と書いている。今日映画を見て、宮城が人を引き込む物凄い能力があることが分かった。

戦前、貧困の中で大阪で養女に出されたまり子は、女学校進学が叶わぬと、歌手になることを夢見る。父の坂本武は、事業に失敗するとまり子を中心に兄池部と旅回りの一座を作り、戦時下の九州を巡業する。 戸畑での公演中、一座の中心夫婦が逃げ、仕方なくまり子は、すべての演目を一人でこなし、観客の圧倒的声援を受ける。ここから、まり子の独演公演が大成功する。戦後、上京して、浅草、日劇、さらにはビクターの専属、ついには『極楽島物語』で東京宝塚劇場のミュージカルに主演する。その間に、近所の中学生久保明との淡い恋と戦後の失恋など、大分フィクションが挟まれているらしいが、宮城まり子の一代記を菊田一夫が大変ドラマチックに、そして上品にまとめている。元は菊田の作・演出でヒットした舞台劇である。 宮城まり子の芸質は、現在の女優で言えば吉田日出子に似ていると思う。本質的に一人芸であり、一種とぼけたスットンキョウなところが。現在で言えば、「天然ボケ」と言うのだろうが、本当に彼女は演技ではなく天性として嫌味なくぼけられるのである。

雨の中ラピュタには、監督松林宗恵氏と共に宮城まり子もきていた。少し太られたようだが、その童女のような容姿と話し方は全く変わらず。
終了後のトークでは、映画は舞台の合間の夜間撮影で、完成するとすぐに次の舞台だったので、映画は一度も見たことがなく、今日初めて見た、とは驚いた。そのくらい当時の大スターは忙しかったのである。彼女が、すべての芸能活動をやめ、障害児施設「ねむの木学園」に専心するようになったのは、弟が交通事故で亡くなったことが大きな理由で、当初は「姉弟学園(きょうだい学園)」と名付けたかったのだそうだ。

戦後の芸能に多大な足跡を残された女優のご冥福をお祈りする。

無観客興業を見て 大相撲は・・・

2020年03月08日 | 大衆芸能
日曜日に続き、大相撲を見る。無観客興業だが、これを見ていて、無観客の歌舞伎を思いだした。



無観客の歌舞伎とは、1935年に菊五郎の『鏡獅子』を小津安二郎が、戦後カラー映画のテストで、やはり歌舞伎を撮ったもので、いずれもフィルムセンターで見た。
どちらも、当時は大きなカメラを入れて、照明も必要だったので、通常の舞台では撮影できず、興業が終了後に撮ったものだった。
見るとかなり違和感があるもので、それは無観客なので、役者への掛け声や拍手がないことによるものだった。

大相撲もそうで、力士、行事、呼び出し、審判、さらに協会の職員以外に人はいないので、シーンとしている。
逆に、行事や呼び出しの声や所作がよくわかり、力士の力闘に集中できるメリットも感じた。
さらに、これを見てあらためて分かったのは、大相撲も歌舞伎も、観客の参加を前提にできていることだった。
世界の演劇で、観客の中で演じる花道のある舞台はなく、歌舞伎は独自である。
昔、シェークスピア時代の演劇は、張り出し舞台だったらしいが、近代劇では額縁で区切られていて、舞台と客席は明瞭に区切られており、花道での演技もある歌舞伎は極めて例外的である。

ここで、以前にも書いたが、折口信夫の「相撲は演劇である」との説の正しさを再認識する。
相撲にも花道があり、天井の櫓の周りの幕は、劇場の上部にある「一文字幕」と同じ起源なのである。
相撲は、神と精霊の戦いであり、土俵の土を足で踏み固めるのは、土地を清浄化する祈りなので、ぜひ大相撲は「悪霊退散」の祈祷としてやってもらいたいと強く願うものである。

坂東富貴子舞踊公演『狐 葛の葉』

2019年11月08日 | 大衆芸能
国立小劇場で、坂東富貴子舞踊公演『狐 葛の葉』が行われた。
葛の葉は、『しのだづま』で、説教節から浄瑠璃、歌舞伎に取り入れられ、映画でも内田吐夢監督で『恋や恋なすな恋』として作られている。
これが大川橋蔵の安倍保名と嵯峨三智子の葛の葉で、結構面白い作品だった。

安倍清明に命を助けられた信田の狐が女として現れて婚姻し、子までなすが、ある時蘭菊に見惚れていて正体を現してしまい去る。
その時、「恋しくば訪ね来てみよ 和泉なる信太の森の恨み葛の葉」と障子に書く。
これは異類婚姻譚で、そこには被差別の問題が隠れているとの説もあるが、ある種の異なる文化の間で婚姻が行われた時の困難さだと言えるだろう。
吉本隆明風に言えば、「共同幻想」と「対幻想」は本質的に対立するからだとなる。

    

今回の公演も、言うまでもなく、ふじたあさやの『しのだづま考』にヒントを得たもので、演出もふじた氏である。
しかし、坂東富貴子は、そこに昔、彼女が二代目若松若太夫の『葛の葉 子別れの段』を聴いて感動した体験に合わせ、
まず泉州信太山盆踊りから始まり、桂春蝶の語りと三代目若太夫の説教で序段が語られ、そこで坂東富貴子が一人踊る。
狐、保名、葛の葉を前半は素踊りで踊り、後半は女義太夫、さらに最後は故杉本キクの瞽女唄で踊るという大変に贅沢な趣向だった。
あらゆる分野で、女性の力が見直される今日、異類婚姻譚の持つ意味は深く重いと思わされた。
国立小劇場

吉本問題の根本は

2019年08月20日 | 大衆芸能
吉本問題も、泰山鳴動して鼠一匹になりつつあるようだ。
この問題の根本は、芸人が多過ぎることで、今2万人もいるというのだから、異常である。

          

以前、島田洋八が言っていたが、漫才ブームのころ、「若手漫才グループは20組くらいしかなかったそうだが、今や2万人もいる」のだそうである。
ネットなど、活動の舞台が増えているとはいえ、そうは儲けられないだろう。
となると、ギャラが下がることになる。

これも昔のことで恐縮だが、亡くなった前田武彦が言っていたが、「前田さんのギャラで、5人の若手芸人が雇えるので、前田さんは・・・」とのことだった。

要は、テレビが芸を必要としない、トーク番組ばかりになってしまったので、無芸・芸人が蔓ることになったのだろうと思う。
結局は、テレビ局の経営不振が最大の原因となるのだろうか。
時代の推移の結果となるわけか。

 

吉本興業は、戦前から・・・

2019年08月08日 | 大衆芸能
吉本興業の問題で、政権との癒着も問題視されているようだ。
だが、芸人と政治の癒着は、今に始まったことではない。
能楽の世阿弥と言わなくても、戦前の日中戦争中には、吉本興業は、「わらわし隊」を作り中国に芸人を派遣して戦地慰問した。
この時の飛行機は、朝日新聞のもので、戦争は新聞の販売拡張に非常に寄与したのである。



まあ、『ハムレット』にも、王様のご機嫌をとる道化が出てくる。
芸能人とは本来そうしたもので、松本人志が、常政権寄りの発言をするのも、ある意味当然のことなのである。

芸人の出自

2019年06月17日 | 大衆芸能
先日、ある方をお会いしたら、今は落語が好きで、独演会に通っているとのことだった。
そして、私は、立川談志のことを思い出した。
彼を知ったのは、ラジオの『東京ダイアル』というラジオ東京の番組で、ここで彼は「こえんチャンのおしゃべり」というコーナーをやっていた。
すぐに談志になり、テレビ、ラジオで大人気だった。
高校の頃、文化祭に行くと、必ず談志の真似をする高校生がいたもので、その人気は、1990年代の「たけし」のようなものだと言えば理解できるだろうか。

そして興味深いことに、談志は東京生まれだが、いわゆる下町ではなく、城南地区の大田区の生まれ育ちである。
それは、談志の弟子の一人の毒蝮三太夫も同じで、彼は下町の生まれらしいが、東京、横浜を引っ越し、大田区の大森高校を卒業している。
他に、城南地区出の俳優と言えば、石橋蓮司がいて、彼もどこか城南地区らしい、埃臭さがある。

          

これは私の想像だが、談志には、自分は東京だが、城南地区の出で、下町の生まれではない、というコンプレックスがあったように思える。
それが彼の努力と向上心の根源だったのではないかと思う。
それは、足立区と言う、これまたh辺境の男、ビートたけしも、同じように思う。
アメリカで見ても、レニー・ブルースに代表されるように、ユダヤ人と言う差別された人間たちが、アメリカの笑いの大勢であることと同様だと言えるだろう。

絵解き

2019年04月23日 | 大衆芸能
日曜日の東京新聞の「生きる」に現役の「絵解き師」の岡沢恭子さんが書かれていた。
岡沢さんは、長野の長谷寺の住職の夫人であると共に、絵解きを全国でやっておられるのだそうだ。
絵解きとは、釈迦涅槃図などを掲げて、それについて釈迦の教えを説くものである。
日本の芸能の始まりとも言われ、浪曲や講談、落語などの源流でもあるわけだ。

            

21年前、彼女が寺で絵解きをやった時、聴衆は1人だけだったが、語り終わるとその男性は涙を流し、
「明日、母親を連れて来るので、またやってくれますか」と言い、
彼女も、たった一人の観客の語っているとき、自分が話しているのではなく、まさしくお釈迦様の言葉が自分の口から出ているような感じになったそうだ。
まさに入信の演技そのものだが、芸能の原点であるはずだ。
全国で行っているそうだが、いずれ見てみたいものだと思っている。

津軽と沖縄の民謡は

2018年11月29日 | 大衆芸能

月曜日は、両角さんと小島さんの「よろず長屋」で、土生みさおさんの津軽ジョンガラ節を聞く。

           

高橋竹山のLPも持っているが、ジョンガラを生で聴くのは初めてだったが非常に感動した。

そして感じたのは、津軽民謡と沖縄は、日本に残る縄文文化ではないかと言うことだ。

また、沖縄音楽にアメリカが大きな影響を与えているように、ジョンガラ節の名人の一人だった白川氏は、三沢基地からの米軍放送を聞き、その影響を受けているというのだ。

このジョンガラ節を聞いて思うのは、かつて日本全土を覆っていた縄文文化の強さ、豊穣さである。

それは、北方アジアから来た弥生文化によって北と南に追われたのではないかと思ったのである。


立花家橘之助

2018年03月24日 | 大衆芸能

小室等のMXテレビの『新・音楽夜話』に、立花家橘之助が出たというので、録画を見ると、もちろん二代目で、元三遊亭小円歌なのだ。

彼女については以前、永六輔のラジオで聞いたことがあり、「音程がどうかな・・・」と思ったのを思い出した。

                

さて、三遊亭小円歌さんは、以前から寄席で端唄などの音曲をやっていたので、初代の立花家橘之助の名を継ぎたいと思っていたのだそうだ。

立花家橘之助は、明治、大正、昭和、昭和初期の大名人で、5歳で高座に上がり、円朝からも褒められて8歳で真打になったという。今レコードで聴いてもリズムとテンポが最高で、まるでジャズやロックのようにスイングしている。浮世節家元を名乗り、山田五十鈴が演じた芝居の『たぬき』の主人公のモデルでもある。

今回、橘之助の名を名乗るには経緯があり、この名跡はなぜか柳家三亀松が持っていて、彼の息子の亀松から頂いたのだそうだ。

なぜ、柳家三亀松が持っていたかは不思議だが、遊び人で知られた三亀松と同様に、橘之助は大変な艶福家で、彼女は昭和10年に京都の水害で亡くなっているので、どこかで柳家三亀松と遭遇していた可能性はあるのだから。

そして、「浮世節・立花家橘之助」と書かれた古い縦長の木の鑑札を見せてくれた。

戦前は、芸能人はこの鑑札が必要で、警察に登録されていた。だから、戦前は、どこでどの芸能に何人いるのかが完璧に分かるのである。

 

そして、『たぬき』も披露したが、今回も音程はどうかなと思えたのは、私の耳が悪いのだろう。

芸人にとって音程などは実は問題ではない。

越路吹雪も、いまレコードで聴くと音程には相当に問題があるように聴こえるが、実際に見た観客は誰もそんなことには文句は言わず、みな感動したのだからそれで良いのである。

二代目が、初代に負けぬ名人になることを期待したい。

 

 


あんちゃんオリンピックか

2018年02月15日 | 大衆芸能

ピヨンチャンオリンピックは、いよいよあんちゃんオリンピックになってきたようだ。

あんちゃんオリンピックというのは、フリースタイルスキーなろもの、スノーボードやモーグルである。

スノーボードで銀メダルを取った平野は、結構抑えた答えだったが、一番すごかったのは、長野五輪モーグル金メダルの里谷多恵だった。

これは、むしろ彼女の問題ではなく、テレビの解説者の問題だった。

里谷が、高度な技を次々とこなして高得点が出ると、

「タエー!」っとまるで恋人同士のような叫び声を上げ、一気にモーグルの評価を下げたのである。

もっとも、私は五輪が、あんちゃんオリンピックになることには反対ではない。

もともと、近代五輪の提唱者クーベルタンが男爵であったように、オリンピックは欧州の貴族のサロンの遊びが基である。

だから、五輪はプロを排除してきた。つまり、スポーツで金を稼ぐのは卑しいことであり、アマチュアの方が気高いということだった。

その意味で、「勝つことではなく、参加することに意義がある」というのも、貴族のサロンの遊びに参加しましょうという意味でもあるのだと私は思うのだ。

日本が1912年のストックホルム五輪に参加した。

この時はマラソンだけで、当然国内の大会も開かれた。その時の大会の規程では、参加できない者として、人力車夫と郵便配達人があった。

           

かれらは、走ることを職業にしているからダメで、映画『無法松の一生』の富島松五郎は、オリンピックの国内予選に出る資格がなかったのである。

 


砂川捨丸が抜けていた 『昭和芸人七人の最期』

2018年01月15日 | 大衆芸能

笹山敬輔の『昭和芸人七人の最期』は、よく調べてある非常に良い本だが、一つだけ気になるところがあった。

それは、エンタツ・アチャコに触れて、漫才の歴史について記述しているとことである。

近代の漫才の初めを玉子屋円辰にしているのは良いが、砂川捨丸について一切触れていないのは、どうかなと思った。

捨丸は、江州音頭の音頭取りでもあり、鼓を持つという古式の形態でありながら、近代漫才のしゃべくり漫才もやった人で、大変に人気のある漫才で、中村春代などのコンビでラジオ、テレビにもよく出ていた。

この人で有名なのは、『串本節』で、「ここは串本、向いは大島・・・」は、大変有名な歌で、全国に和歌山の串本を知らせることになった。

笹山氏は、富山の生まれだそうで、富山は関西文化圏なので、砂川捨丸も聞いていると思っていたが、捨丸は1971年に死んでいるので、1979年生まれの笹山氏は聞いておられないのも仕方ないのだが。

 


『昭和芸人七人の最期』 笹山敬輔(文春文庫)

2018年01月05日 | 大衆芸能

七人の芸人とは、榎本健一、古川ロッパ、横山エンタツ、石田一松、清水金一、柳家金語楼、トニー・谷である。

エノケン、ロッパ、エンタツらについては、ほとんど知っていたことばかりだが、石田一松、清水金一、柳家金語楼、トニー・谷については初めて知ったことも多くあった。

そして、みな早世しているのだが、ロッパの57歳、石田一松の53、シミキン54歳は異常としても、エノケン65歳、エンタツ74歳、トニー・谷の69歳は、そう早かったわけではない。

当時の平均年齢から見れば、少し早いなという程度である。私の父は、1901年生11月まれで、1960年3月に死んだので58歳だった。脳梗塞で一度倒れたのに、ほとんど養生をせず、降圧剤も飲んでいなかったのだから再発したのも仕方なかったのだろう。要は、自分の体に自信があり、年をとったらそれなりの対応しないといけないという今の「健康思想」はなかったからである。

芸能人ではそれ以上で、体が悪いと知られると仕事が減るとして隠して活動し続け、病気が見つかった時は手遅れというのが普通だった。

この芸人に共通する要素として、今のテレビ芸人とはまったく違い、芸があることだが、音楽、特にアメリカのポピュラー音楽とダンスの素養があったことである。

柳家金語楼はどうかと思われるかもしないが、彼もジャズが好きで、金語楼バンドを持って実演したこともあるのだ。

まあ、芸人とは歌が上手いことが最低の条件で、それはタモリや渥美清、森繁久弥を見てもそうだろう。

作者は、アクションで人気者になった芸人が、泣かせる芝居になることを「堕落」のように見なしているが、それは体技が肉体に依拠している以上無理なことだろう。

それはチャップリンやキートンも同じで、チャップリンはドタバタ役者を辞めシリアス役者になって成功した。キートンはそれを拒否したので晩年は苦労しようだ。

               

「のんき節」の、タレント議員第一号の石田一松で、彼は1946年の戦後最初の衆議院選挙に出て当選し、以後国民民主党議員として活動した。三木武夫についていて、天皇の下で「民主と愛国」を実現させるものだったようだ。

読んで一番驚いたのが、「1951年の日米安保条約締結になる「講和条約締結」に際し、アメリカとの「単独講和」に反対していることだ。この時、中曾根康弘も投票を欠席したそうだ。中曾根の行動には、彼の日本自立論があったのだろうが。

さらに、驚くのは、石田は、1955年の砂川基地反対闘争の時、現場に来て「のんき節」で反対運動を激励したとのこと。

沖縄問題を何も知らないで平気な今井絵里子とはレベルが違うね。

さて、この七人の芸人たちが今のテレビ芸人たちと、まったく異なる体験をしているのは、言うまでもなく戦争である。

大岡昇平は『武蔵野』で「戦争を知らない人間は半人前である・・・」と書いたが、とすれば今のテレビ芸人は永久に半人前だろう。

 

 


まったりトーク 岡田則夫さん

2017年12月23日 | 大衆芸能

小島豊美さんの「まったりトーク」の案内が来て、講師が岡田則夫さんだったので、神保町のきっさこと言う店に行く。

基本はジャズ喫茶らしいが、ここで小島さんが主催する「よろず長屋まぅたりトーク」https://www.facebook.com/yorozunagaya/photos/gm.1980191135577447/514596265581426/?type=3

岡田さんは、多分日本で一番SPレコードを持っていると言われる方で、特に芸能や記録関係は日本一である。全部で2万枚はあるだろうとのこと!

この夜の話にもあったが、SPレコードのコレクターのほとんどは歌謡曲、流行歌だそうだ。岡田さんは元々は子供の時から落語が好きで、本郷に住んでいたので、洋服屋だった祖父に連れられて上野などの寄席に通っていたとのこと。

当時は落語の本などほとんどなく、唯一あった正岡容の本で、即魅了され彼の本やその他演劇関係の本や雑誌を読むようになり、実際の話を聞きたいとSPレコードに収録されたものを集めるようになったとのこと。

正岡は、早熟な少年で、詩や小説も書いたが落語が好きで本当に落語家の弟子になり、高座に上がりSPも出していて、まずはそれを聞く。決して上手いものではないが、私が知っている範囲では、昔の金馬に似た比較的わかりやすいしゃべり方である。

演説や講習のレコードも掛ったが、松下電機のサンマー電球の広告のSPも奇妙なものだった。ラジオでも流したようだが、電気店の店頭で再生してPRしたものでもあったようだ。その他、電話交換手の会話のレコード、算盤の読み上げなんて言うものもあるそうだが、この夜掛けたのは、大阪の小学生の読本の読み方の模範レコード。模範なので、関西弁の標準型で、言ってみれば中山千夏の台詞の抑揚に似ていた。彼女は生まれは宮崎のはずだが、すぐに大阪に来て、大変に人気の子役になる。

一番変なのが、戦時中の模範的国民の勧めのようなSPで、『海行かば』をバックに日本放送協会の和田信賢アナの荘重なお言葉。岡田さんのお話だと戦時中はよく掛けられていたもののようだ。いずれにしても、その時代がよくわかるSPである。

 岡田さんも、ヤフオクも使うこともあるようだが、能率的にやったのでは仕事みたいで面白くなく、いろいろと探してやっと見つけること、その過程が楽しいのだそうだ。要は遊びであり、道楽なのだとのこと。まったくその通りだと思う。

先日、黒澤明の『明日を創る人々』の小型のポスターがあり、私も10万円までは入札したが、バカらしいので止めた。なんと21万円だった。21万円なら、その分、映画や芝居を見る、あるいは本やLPを買う方が良いと思う。

 


『川田晴久物語』

2017年09月24日 | 大衆芸能

墨田区千歳にある渡辺信夫さんの私立図書館の眺花亭では、毎月映画会をやっていて、この日は皆大好きな川田晴久の物語。

30年位前のテレビ朝日の番組で、小堺一樹の案内で、関係者の話を聴いていくもの。

私も、もちろん同時代的に川田を見たのは、美空ひばりの時代劇映画で、大抵は瓦版売りなどだった。

その後、彼や「あきれたぼういず」のことを知り、LP、CDも持っているが、大変な才能、企画力、センスのあった芸人だったと思う。

                                       

彼は、もともとは本郷の生まれで、浅草の芸能が好きになり、浅草オペラの団に入ったのち、吉本の東京の浅草花月で、あきぼすを結成して大人気になる。

中では、当時まだ生きていた坊屋三郎が出てきて、「今のジャニーズなんか問題じゃないよ」と自慢しているが、嘘ではない。

今と違い当時の劇場は、定員制ではなく客をいくらでも入れたので、劇場の二階から落ちたなどという話もあったくらいなのだから、客の入り方が違う。

灘康次、田端義男、はかまみつ緒ら、実際に仕事をした人間が証言しているが、「この連中もみな死んだな・・・」と思う。

中でおかしいのは、皆ギターは下手だったと証言していることで、実際はそうだったのだろう。

彼は、戦前のメンバーの引き抜き、脊髄カリエス、再結成など非常に波乱に富んだ人生を送った。

戦後の一番の功績は、言うまでもなく美空ひばりを発見して引き上げたことで、むしろ晩年にはひばりに着くことで芸能界を生きていたように見える。

1957年に死んだが、よく考えれば彼は、やはり実演、映画、ラジオ時代の人気者で、テレビ時代ではなかった。

その意味では、彼の後を継ぎ、テレビを中心に大活躍するのがクレージー・キャッツだったといえるだろう。

この二つは、非常によく似ていると私は思う。

どちらも洋楽の心得があるが、日本的な音楽も会得していたこと。

クレージーも、メンバーのほとんどは東京生まれで、育ちも中流の家の出だったことなど。

どちらも、今テレビ界を席巻している関西の芸人とは異なる、ある種の含羞を持っていたことであると思う。

 


『古川ロッパとエロ・グロ・ナンセンス 2016秋のぐらもくらぶ祭り』

2016年10月12日 | 大衆芸能

SPレコードの収集家で有名な保利透さんのぐらもくらぶ祭りとして『古川ロッパとエロ・グロ・ナンセンス』が江戸東京博物館ホールで行われた。

                        

 

二部構成で、第一部は、保利さん、毛利真人さん、さらに大谷能生さんとの鼎談で、昭和初期のエロ・グロ・ナンセンス・ブームの様々なメディアを駆使しての紹介。

言うまでもなく、エロティシズムは、人類誕生以来あったはずで、日本の『古事記』の「天の岩戸」の話も、大和最初のストリップ・ショーである。東宝映画の『日本誕生』では、乙羽信子のアメノウズメノミコトが踊って、原節子の天照大神様を岩戸から出すことに成功する。この時の大男は、相撲の朝潮である。

エロは、江戸時代でも浮世絵や春画として存在したが、メディア上で「エロ」と言われたのは、昭和4年の朝日新聞でのコラムとのことだ。

このサイレント映画末から、昭和12年にレコードでの検閲が始まるまでの時期が、レコードなどでのエロ、グロ、ナンセンスの短い全盛時代だったとのこと。

そのものズバリの『エロ感時代の歌』などもあり、映像で見れば、日本最初のトーキー映画『マダムと女房』での隣の伊達里子が演じたマダムが典型的な姿である。

途中では、歌の山田参平とギターの武田篤彦のユニットの泊によるライブもあり、エノケンのSP『電話』は非常によくできたコント会話だった。

休憩後は、二部で佐藤利明さんの司会で、「古川ロッパ・リスペクト・ショー」、佐藤さんの話とロッパの映像、レコード演奏、さらにロッパ日記の片岡一郎さんによる朗読で、戦前のロッパの姿が立体的に描かれた。

その白眉は、昭和11年2月26日のロッパの日記で、言うまでもなく2・26事件の日だが、この日彼は東宝砧撮影所に行き、徳山暲と『歌う弥次喜多』の撮影をしていた。

終了後、銀座に出て食事して満足することで、この日は終わるが、まさにロッパにとっては、世間の情勢よりもその日の食い物の方が大事だったのだ。だが、3日後の2月29日の日記では、有楽座の彼の公演は満員で、「革命後のロシアを見るまでもない、日本人にも娯楽は必要だ」と自慢している。

この日の最大の映像は、この大ヒット作『歌う弥次喜多』の舞台の映像と音楽のライブ映像で、佐藤さんにお聞きすると、公表はできないそうだが、完全な映像が残されているのだそうだ。

どこかの旅館の場面で、ロッパや徳山と共に、三益愛子の女中がドタバタ劇を演じている。

以前から私も古川ロッパが大好きだったが、あらためてその偉大さを認識した一日だった。

ぐらもくらぶ祭りも、12年前のエノケン、去年の二村定一、今年の古川ロッパときたので、この次は柳家金語楼となるだろうが、個人的には徳川夢声による『夢声戦争日記』の朗読と映像による立体ショーをやってもらいたいと思った。

ここにもライブがあり、平成ロッパの北園優さんによる、ロッパそっくりの歌と形態模写には感心した。

また、保利さん得意の当時のマイクロフォンの使用があり、片岡さんの朗読が当時のマイクで行われたが、「これは当時のラジオの声だ」と思った。

来年もぜひやってほしいイベントで、新発売されたCDを2枚買ってしまう。