猫じじいのブログ

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「権利と義務」「良心と義務」どちらもおかしい、フロム

2019-11-12 22:33:15 | 思想

『自由からの逃走』(東京創元社)を読むと、エーリッヒ・フロムは「義務」というもののインチキ性を批判している。

ここでの「義務」は“duty”の訳である。日本語では“obligation”も「義務」と訳しているが、これは「強要」と訳して、日本語でも区別をしたほうが良いのではないか。

昨年10月の韓国での国際観艦式で、韓国政府に自衛艦旗「旭日旗」の掲揚自粛を求められた日本政府は海上自衛隊の護衛艦派遣を見送った。このときの理由が「自衛艦旗は自衛隊法などの国内法令で掲揚が義務づけられている」からとした。この「義務」は“obligation”である。「法律が強要している」と言っているのだ。

フロムが、中世社会で「より高い上層階級の人間にたいする経済的義務」というときの「経済的義務」は“economic obligations”である。

今年の東洋経済の座談会で、佐藤健志が「社会的な権利は普通、義務を伴います」と言ったが、この「義務」は“duty”の訳である。主人の「恩義」にたいして家来が答えるのが“duty” である。武士の社会での主従関係は身分制ではなく、権利(恩義)と義務(忠義)との取引である。士族の主従関係が、明治の大日本帝国憲法の「権利と義務」に引き継がれ、74年前の敗戦にもかかわらず、戦後の学校教育のなかに引き継がれたものである。

私は、民主主義の国家では、国民が主権者だから、「権利と義務」という言葉を使うのは、おかしいと思う。「国家主義者」ではないかと疑う。

西洋思想には、もう一つの“duty”がある。それがイマヌエル・カントのいう「義務」である。カントは、「神」のかわりに「理性」を人間の行動規範にすえ、「道徳」を理性が命ずる「義務」だと言う。

フロムはこの「義務」を「良心」とともに否定する。フロムは、自分自身にたいする敵意が「良心とか義務とかいう仮面をかぶってあらわれる」と言う。

この「良心とか義務」は“conscience or duty”の訳である。

そしてフロムは言う。
「「良心」とは、自分自身によって、人間のなかに引き入れられた奴隷監督者にほかならない。良心は、人間が自分のものと信ずる願望や目的にしたがって行為するようにかりたてるが、その願望や目的は、じつは外部の社会的要求の内在化したものである。」

すなわち、主従関係がないはずの現代社会での「義務」とは、ほんらい本人がやりたくないことを社会的な規範としてムリヤリ受け入れて自発的に行うことである。「権利と義務」より始末が悪いのだ。

フロムが、神経症患者をみてきたから、そう断言できるのだろう。義務感から動くことは、本人の人間性を破壊する、と私も思う。


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