猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

無理は禁物 この暑さ、熱中症で死ぬ猛暑がきた

2022-06-27 10:18:38 | 働くこと、生きるということ

まだ、6月の終わりなのに、猛暑の日がつづいている。猛暑の日がつづくと、例年、年寄りが死ぬ。今年はまだ死んでいないと思っていたら、きょうの新聞によれば、川越の94歳の男性が自宅から病院に緊急搬送され、死亡が確認されたという。消防局によると部屋にはエアコンが設置されておらず、熱中症によるとみられるという。

だれが消防に連絡して緊急搬送となったのか。家族が近くにいたのか。介護人が派遣されていたのか。エアコンが設置しなかったのはどうしてなのか。エアコンを設置しないのが悪いのか。

私の5歳上の兄は大阪のアパートで独り暮らしをしている。部屋の中をつたい歩きをするのがやっとで、訪問介護のおかげで生き延びている。

消防に連絡したのは訪問介護の人ではないか。命は助からなかったが、介護制度のおかげで、病院に緊急搬送された。昔は、発見されず、一人死んで、ネズミの餌食になった。大家が家賃を納めないと様子を見にいったら、部屋の中は血だらけで肉片が飛び散っていたという話しを、子どものときに聞いた。

私の子ども時代はエアコンがある家なんて聞いたことがなかった。私は虚弱体質で、夏になると食欲がなくなり、いつも床に転がり、ごろごろしていた。もしかしたら、普段から栄養が足りていなかったのかもしれない。

私は、いま、昔より、体力がある。夏になると、血管が開いて、楽になる。心臓の冠動脈がつまっているから、冬の寒さのほうが苦しい。じっさい、子どものころは、冬のほうが、年寄りが脳梗塞などでばったばったと死んだ。

じつは、エアコンの寒さに私は弱い。食堂兼居間にエアコンが1台、30代の子どもの部屋に1台ある。私はエアコンの寒さに足がつるのだ。もしかしたら、坐骨神経痛かもしれない。とにかく、きのう、鹿沼土5リットルをホームセンタで買って、40分かけて歩いて、家に持ち帰った。そのあと、うたた寝をしていたら、足のつった痛さで目が覚めた。

私の妻の友だちにも、エアコンの寒さに弱い人が二人もいる。ひとりは扇風機を家に5台ももっており、きのう、妻は古くなった扇風機を1台もらってきた。

死んだ94歳の男性は貧しかったからエアコンが買えなかったのだろうか。それとも、エアコンの寒さがこわかったのだろうか。エアコンを設置していないからといって、他人がそれを責めることはできない。

四国で独り暮らしの妻の姉は認知症がはじまって、新しい電気器具を使えない。スマホも使えないし、電気釜も電気洗濯機も使えない。いちいち、私の妻に電話で聞いてくる。それなのに、町の電気屋はつぎつぎと電気製品を売る。エアコンを買えるお金があっても、使いこなせない年寄りもいるだろう。

新聞は、死んだ94歳の男性の生活も人生も何にも語っていなかった。ただ、「部屋にはエアコンが設置されておらず、熱中症による症状とみられる」とだけあった。


朝日新聞の「働く20代のモヤモヤ」がわからない、うつの一歩手前でないか

2022-06-05 22:38:58 | 働くこと、生きるということ
 
先週の日曜日ときょう、朝日新聞に『(フォーラム)働く20代のモヤモヤ』という記事がのった。
 
「上の世代と違い、生き方をめぐる選択肢が無数にあるからこそ、迷いは尽きません。今の働き方と、結婚や子育てとの両立はかなうのか。仕事の悩みのとどう向き合っているのか。モヤモヤを抱える20代の本音を同世代の記者が探ります。」とある。
 
記事を読んでも、その「モヤモヤ」がわからない。生き方をめぐる選択肢は昔から無数にあった。この記者が「上の世代と違い」というからは、いまは選択肢が多数公認されて、どれを選ぶか個人が迷っているだけのように読めるが、そんなことはあり得るはずはない。私たちはほかの人に支配されているのである。管理されているのである。「秩序」というとき、人間の上下関係がすみずみまではりめぐされていることを指す。自由がないのである。
 
私自身は他人に仕えることが嫌いである。外資系に務めても、自分のやりたいことを主張して、上司と争ってきた。昔の同窓生と話してもそれぞれの職場で同じ体験をしている。
 
「モヤモヤ」とは闘わないことを選択しているからではないか。闘わないことを選択したため、「モヤモヤ」を感ずるのは正常なことではないか。人間は、強いものを前にして、闘わずして従うことを選択するのは不思議ではない。
 
<勤務形態や待遇に不満を言ってもどうしようもないから、サウナかジムに行き、汗と一緒に流すことにしている。>
<個人の意見を通すことが良しとされていないと、寝るか飲むかで受け流すの一番うまくいく>
 
「モヤモヤ」とは、本来、怒りで体が震えるところを、なんとか、自分を無理になだめて、国や社長が正しいと自分を騙しているが、騙されない自分が心のどこかに残っているからである。
 
もしかしたら、「モヤモヤ」ではなく、うつ状態になっている人も多いのではないか。
 
侵攻してくるロシア軍と戦って、ウクライナの国民のように、ロシア兵を殺すことができなくても、あるいは、ためらっても良いのである。選択肢の1つである。身勝手な上司を窓から突き落として殺さないのも1つの選択肢の1つである。闘わないのも選択肢である。
 
しかし、戦わなくても、自分を騙すのは、心の平和のためには、いけない。
 
国家というのは、支配階級が他の人びとを管理する仕組みである。普通の人にとって、個人にとっての幸せと国家の利益と合うはずがない。企業が国が「女性活躍のための取り組み」というとき、女性のことを思っているはずがない。
 
確かに、私の経験では、善い人と悪い人が争えば、悪い人が勝つのが普通である。善い人は現世での成功にこだわらず、善い人であることを選択した喜びにひたるしかない。人間は弱いから、本音が話せる同僚や仲間をもつのも自分の心の安定に役立つ。それに、不完全ながらでも、日本では、みんなに平等に選挙権がある。どうして、棄権する人がいるのだろうか。
 
自分の思い、考えを述べたからと言って、会社から解雇されるのはオカシイ。解雇がしやすくなるように法律を変える日本維新の会に投票する人だけでは困るではないか。
 
投票権の行使で政治を変えることができる。社会を変えることができる。
 
私の子ども時代は赤旗が町になびき、ストライキがばんばんあった。いまの心優しい20代がこのような威嚇や暴力的手段が嫌いというのもわかる。闘わなくても、自民党、日本維新の会、国民民主党以外に投票して、政治を変えられるのである。
 
「モヤモヤ」は自己欺瞞の結果出てきた心の病気のはしりである。自分を肯定し、話せる仲間を見つけ、自分ができる範囲の行動を選択肢し、「モヤモヤ」を吹っ飛ばそう。国家は個人の味方ではない。雇用者と被雇用者が存在する社会はオカシイ。

そのために「産まない」を選択するほど、キャリアはだいじなことなのか

2022-03-13 22:13:41 | 働くこと、生きるということ

(Христина Соловій)

きょうの朝日新聞〈フォーラム〉のテーマは『産まない選択』であった。確かに「産むか産まないか」は当事者に選択の権利がある。

しかし、なぜ産まない選択をするのか、という疑問が私にはある。子どもができない人が、無理をして産もうとするのをやめるのは納得できる。しかし、できてしまったのを無理して降ろすのは、あまり幸せなことと思えない。

「子どもを産まない人生があってもいいと思う。いろいろな形で社会貢献はできる。子どもを産んでるから一人前だなんて、もうやめてもらいたい。」(40代女性)

子どもを産むことが「社会貢献」と考えている人がいるなんて知らなかった。被害妄想ではないか。

「個々人の気持ちに矮小化するのではなく、子どもへの投資について国としてどう考えるかという政策論で捉えるべきだろう。」(40代男性)

「子どもへの投資」という考えにはびっくりした。資本主義社会に毒されているのではないか。子育て自体に喜びがあることに気づいていないのだろう。子育てに喜びを持たない人が子どもをもつと、虐待しかなくなる。産むことが義務と感じる人は子どもを持たない方が良い。

子どもをもつということは、セックスをしたいと同じように、欲望の1つである。国のために産むのではない。国なんて、私たちの自由を奪うために作られた檻にすぎない。

子どもを産んで育てたい人が、経済的理由で子どもをもつことを諦めないで済むよう、経済的支援をするのが良い。

問題は、子どもを産みたいという欲望より、もっと優先される欲望があると思う人が増えたことにある。それって、個人の自由だが、なんなのだろう。

私の妻の兄の子どもは、欲望のまま、あちこちに、子どもを産ます。金持ちでもないので、養育費を払うのに、苦労している。焼き鳥屋の雇われ店長である。自分の食費にも困っている。

「結婚したら子どもを持つものだと思って産んだが、後悔もある。仕事のキャリアが奪われて稼ぎが減り、夫には「アルバイトみたいな稼ぎ」と言われ傷ついた」(40代女性)

「キャリア」となんだ。「稼ぎ」とはなんだ。

NPOで私の担当している20歳過ぎの子は「働きたくない」という。「働くことは苦しいことばかりだ」という。その子に、「働くと仲間ができる」と説得している。

「キャリア」とはなんだ。職場で偉そうにすることではないか。賃金労働者になって、雇用主に「主任」「課長」「部長」とおだてられ、会社の上下関係に取り込まれることではないか。

「キャリア」を口にする奴は人間の屑である。

雇用主からもらう賃金の大小で、人をバカにする夫のチンポコは切り取ってしまえ。

みんな資本主義社会に毒されている。資本家や経営者を追い出し、「キャリア」なんてバカなことを言わなくて済む社会を作らないといけない。

[関連ブログ]


労働への尊厳を失った社会への批判、マイケル・サンデル

2022-01-10 23:16:06 | 働くこと、生きるということ

去年の6月に図書館に予約した本がようやく届いた。

マイケル・サンデルの『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(早川書房)である。原題は“The Tyranny of Merit”で、副題が“What’s Become of the Common Good”である。

原題は『有用性の横暴』、副題は『公共の善はどうなる』というところか。

”merit”は有用であることを意味し、訳者は「実力」あるいは「能力」と訳している。 “common good”は「公共の善」のことで、「正義」「共通善」と訳している。日本語のタイトルはちょっとサンデルの趣旨とずれている。

(補注)"merit"は、家柄や受け継いだ財産などに対立する概念なので、能力とも受け取ることができる。

サンデルの関心は、なぜトランプが、労働者の熱狂的支持を得たかである。サンデルはその理由を、リベラリストが労働者の尊厳を踏みにじってきたことにあると結論する。そして、リベラリストが依拠する “meritocracy”を批判する。特に、「学歴主義」を序論から激しく批判する。

大筋でサンデルの主張に私は同意する

“merit”は有用であることだから、そこには価値観がない。サンデルは「公共の善」に価値を置く。そして、社会が働くことへの尊厳をもたなくなれば、”merit”はただのブランド(たとえば学歴や知能指数)でよくなり、徒党を組んだ陰謀が社会に幅を利かすようになる。

民主党のビル・クリント、ヒラリー・クリント、バラク・オバマが無前提的に「教養」「教育」を強調することは、大学にいっていない労働者をおとしめることになると、サンデルは言う。私も「教育」がすべてを解決するとは思わない。

民主党がサンデルの激しい攻撃の対象になっているが、共和党がろくでもないのはあたりまえで、民主党が、リベラリストが労働者を裏切っているから、サンデルは怒るのだ。

サンデルは「アイビー・リーグ」を持ち出し、アメリカ社会が、学位ありなしだけでなく、大学に格差をつけていることに、異議申し立てをしている。

日本も学歴社会である。しかし、アメリカの学歴社会と異なる。日本の学歴社会は、日本社会が官僚社会であることにもとづく。「有用」であることより「服従」を重視する。アメリカやドイツの真似をしていれば、企業が経済的に成功すると思われていたので、個人の「能力」はどうでも良いとされた。企業は権力のゆえんを「学歴」に求めた。

私は若いとき、日本の「学歴」社会は壊れると思っていた。自分の「学歴」は一部の人にしか明らかにしなかった。「学歴」ではなく「能力」で評価して欲しかったからだ。

当時、日本では、学位のない田中角栄が首相になり、竹下登が首相になった。

若いときの理想のアメリカが、いま、「学歴」社会であることには愕然とする。アメリカが「学歴」社会に落ち込んだのは、アメリカ社会が労働を尊厳しなくなったからであるとサンデルは考える。移民が、移民の子どもたちが、物を生産し、物を運び、商品を陳列し売り、家庭のごみを集めて処理する。そして、グローバリゼーションによって、物の生産の多くは海外に移って、高学歴のエリートが企画と生産の監視と販売の促進をするだけの社会になり、多くの若者が労働を通して社会に貢献し、尊厳を得る機会が奪われるようになった。失業保険を払えばよいとか、食料スタンプを発行すれば良いとかの問題でないのである。

私は古代ローマ社会を思い出す。ローマ法を確立し、有用であれば誰でもローマ市民になれるようになった。しかし、土地は大地主に占められ、土地をもたない市民、プロレタリアには仕事がなかった。地中海沿岸に平和が訪れると、兵隊になることもなくなった。反乱を防ぐために、プロレタリアにはパンとサーカスが与えられた。サーカスとは剣闘士の命がけのショーである。そして、古代ローマは没落の一途をたどった。

“common good”(公共の善)と労働への尊厳を失った社会は崩壊の一途をたどるしかない。サンデルの新書は立憲民主党へのお叱りでもある。


食べることが生きることから、ひとに優しくあるために生きる

2021-12-19 23:28:44 | 働くこと、生きるということ

私は戦後のベビーブームのときに生まれた一人である。

私の子ども時代は生きるのに大変であったが、生きるということは何かは簡単であった。

子ども時代に読んだマンガで一番記憶に残っているのは、子どもたちが先生の家に遊びに行ったら、ジャガイモを鍋一杯に茹でてくれて、お腹いっぱい食べると言う物語であった。確か、寺田ヒロオのマンガだと思う。子どもたちがお母さんに「タンパクを食べたい、タンパクを食べたい」と声をそろえるのもマンガによくでてきた。肉を食べるというの特別のことだった。

食べることが生きることであった。生きるということは何であるか、悩むことはなかった。

私の20歳のころは、世界的に若者の反乱があった。ベビーブーマから、「学園紛争」とか「全共闘」の世代に私はなった。田中拓道は『リベラルとは何か』(中公新書)のなかで、これを「文化的リベラル」と呼んでいる。

私は、田中がこれを「文化的リベラル」と呼ぶのに、当事者としては違和感がある。確かに、もっと食べたいよう、と騒ぐのよりも、文化的なのかもしれない。しかし、何のために生きるのか、ということに悩むことはなかった。大正時代のように、人生とは何かと悩むことは、周りを見渡しても、なかったのである。

当時の若者の反乱は、ただただ、あらゆる権威、権力から自由でありたかったからである。ピ-ター・フォンダが出てくる映画『イージ・ライダー』(1969)がその気持ちを表現している。

何のために生きるのかという悩みは、私の後の時代の若者の特権である。それこそ「文化的リベラル」と呼ぶのにふさわしいと思う。「ゆたかな社会」になったが、いっぽうで厳然たる貧困が存在し、それを問題視する党派もなくなっている。社会がゆたかになっているが、心ゆたかな者が孤立する時代になっている。

会社に務めていたとき、出社ができなくなった新人の指導を年配の私が頼まれたが、逆に、その新人の子に勧められたのが羽海野チカのマンガ『ハチミツとクローバー』である。自分の才能や生き方について迷う若者達の姿を描いた群像劇であり、新世代の息吹を感じた。

ところが、それは、ひきこもりがちだった作者の想像の産物であるとする解説を読んで、困惑した。

何のために生きるかに悩むことは素晴らしいが、人にやさしくあるために生きるというシンプルな答えで満足していいと私は思う。