極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

デジタルケインズと共生・贈与

2013年04月17日 | 時事書評

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【新たな飛躍に向けて-新自由主義からデジタル・ケイジアンへの道】

 

  

1.タブーと経路依存性
2.複雑系と経路依存性
3.複雑系と計量経済学
4.ケインズ経済学の現在化
5.新自由主義からデジタル・ケイジアン 
 

 

【複雑系とデジタルケインズ】

【デジタルと物理学】

ところで、デジタルとは、本来の意味はラテン語の「指 (digitus)」であり、数を指で数えるとこ
ろから離散的な数を意味するようになり、アナログに対応する理論として、工業的には状態を示す
量を量子化、離散化して処理(取得、蓄積、加工、伝送など)を行う方式のことである。データの
数値化にあたっては量子化を行い、整数値(すなわち digit)で表現する。例えば上昇では階段状
に上っていけばデジタルで、スロープ状に上ればアナログである。整数で表示できるか、およその
数値で表現するかの違いである。このため、データ量を離散的な値として表現することになり小さ
い量に対しては誤差を持つ。この誤差は適切な量子化を行うことで実用上影響の無い範囲にするこ
とができ、データ量に比例したアナログ量を用いるのとほぼ等価な処理を提供可能である。 


さらに、そのデータとしての特性は離散値として数値化するので、アナログデータと比べ劣化しに
くい。伝送・記録再生などを行う場合、デジタル量もアナログ量と同様に電圧・電流などの電気信
号に置き換えて取り扱われるが、外乱が生じて信号にノイズが混入した場合、アナログ処理では特
別な処理を行わない限り信号に混じったノイズを取り除くことが困難だが、数値は離散化してあり
中間値を持たず、ノイズによって生じた誤差が一定以下ならばそれを無視でき、元の数値データを
劣化無しに復元可能なことである。

学問的にもデジタル化(デジタイズ)がすすみ、例えば、物理学領域のデジタル物理学(digital
physics ) は、物理学 および 宇宙論で、宇宙は(本質的に)情報により記述可能であり、それゆえ
計算可能であるとする仮定から出発する理論的展望の総称とされている。このような仮定を与える
と、宇宙とは、コンピュータプログラムの出力、あるいはある種の巨大なデジタル計算デバイスと
して理解され、デジタル物理学は以下の1
つ以上の仮説を基礎とするという。

1.宇宙は本質的に情報である (ただし、各情報のオントロジーがデジタルである必要はない)。
2.宇宙は本質的にデジタルである。
3.宇宙はそれ自身が壮大なコンピュータである。
4.宇宙はシミュレーテッドリアリティ実行の結果である。

すべてのコンピュータは情報理論、統計(熱)力学および量子力学の原理と明白な整合性がとれていなけれ
ばならない。これら分野の基本的な結びつきは、1957年 Edwin Jaynesにより2つの論文により提起
された。さらに、Jaynesは確率論を「一般化されたアリストテレスの論理学」として解釈し直した
という
。この視点は、古典論理やそれと等価なブール代数の論理演算を実装するよう設計されたデ
ジタルコンピュータと基礎物理学を結びつけるのにたいへん都合がよい。

宇宙がデジタルコンピュータであるという仮説は、コンラート・ツーゼがその著書Rechnender Raum
(英訳版:Calculating Space)にて初めて提起。デジタル物理学という用語は最初にエドワード・
フレドキンが使ったが、彼はのちにデジタル哲学 という用語のほうを好む。宇宙は巨大なコンピュ
ータであるとする人物には、スティーブン・ウルフラム、Juergen Schmidhuber、ノーベル賞受賞者
の ヘーラルト・トホーフトがいるが、これら著者らは、量子力学の確率論的性質は計算可能性とは
必ずしも非整合ではないと考え、量子版のデジタル物理学は最近セス・ロイド、デイヴィッド・ド
イッチュ、Paola Zizziにより提案されている。 関連するものとしてカール・フリードリヒ・フォ
ン・ヴァイツゼッカーの binary theory of ur-alternatives、汎計算主義、計算的宇宙論 (comput-
ational universe theory)、ジョン・ホイーラーの "It from bit"、マックス・テグマークの究極
合がある。


【経済物理学】

それでは、物理と経済学の融合領域とはどのようなものか?経済学分野での経済物理学(econophy-
sics)は、経済現象を物理学的な手法・観点から解明することを目指す学問でり、現在のところ、
扱う対
象には、株式、為替、先物などの市場、企業間ネットワーク(例えば株の持ち合いなど)、個人・法人
の所得などの例があり、これらの対象を扱う理由は、大量のデータを用意でき、その結果、後に述
べるようにベキ分布(ファットテール)が観察しやすくなるからである。大量の市場データを扱う
試みはマーケットマイクロストラクチャーなどの分野で、すでに1980年代には始まっているが、物
理学者が本格的に市場研究に乗り出したのは1990年代に入ってから。経済物理学という用語は、
ージン・スタンレー(H. Eugene Stanley
)により提案され、1995年、カルカッタの統計物理学の会
議で最初に用いられた。さらに1997年には、ブダペストで世界初の経済物理学の会議が行われたが、
それでは、経済物理学が市場をどのように扱うかについてみてみよう。

従来の経済学による市場理論としては、一般均衡理論がある。これは消費者の効用関数・生産者の
生産関数を所与とし、多市場の価格・需給量を同時決定するモデルであり、数学的にエレガントな
構造をしている。しかし、動学的な理論ではなく、市場がどのように均衡に到達するか、あるいは
市場は本当に均衡しているのか、という問題は扱いにくい。

初期の金融工学では、原資産の価格変化率の分布が対数正規分布に従い、裁定機会が存在しないな
どの仮定の上で、オプションの理論価格を導くことができた(ブラック・ショールズ方程式)。あ
くまで、数学的に扱いやすいから正規分布としている。この段階での金融工学の理論は、時間が明
示的に入っているため動学的ではあるが、実際の価格変化率の分布は正規分布ではなくパレート分
布(ベキ分布)に従うため、現実的なモデルとはなっていない。金融工学は、その後、ARCH、GARCH
モデルのように、価格変化率の標準偏差の時間変動を取り入れ、ベキ分布、ボラティリティ・クラ
スタリングを再現する方向へと発展していく。ただし、なぜそうした分布に従うのかといった疑問
に答えるのは難しいという。

価格変化率の分布がなぜパレート分布(ベキ分布)に従うのかということの理解は重要で、大きな
価格変動は暴落・暴騰を意味し、それが正規分布の予言よりも多いということは、それだけ市場が
不安定な存在であることを意味
するからである。また、オプションの理論価格は、価格変化率の分
布と関係があることが分かっているので、オプションの価格理論にとっても重要である。そこで、
ベキ分布は一般にどのような状況で出現するのだろうか。また、物理学的な手法によってベキ分布
はどのように理解されているのだろうか。

経済物理学では、主に統計物理学的な手法を用いて経済を研究する。時には、流体力学・量子力学
的な手法を用いることもある。
統計物理学で重要な概念の一つが相転移である。相転移が起きる前
後では、比熱などの物理量がベキ分布に従うことが多い。このことは、相転移の前後では典型的な
スケールが存在しないということを意味している(スケールフリー)。
市場にもバブル・暴落相と
フラット相(平穏な状態)の2つの相があり、その相の間を転移することで、ベキ分布が生じると
いうのが、経済物理学の典型的な考え方である。極端な例だが、第2次世界大戦後のハンガリーで
は、指数関数の肩に時間の指数関数がのるほどの猛烈なインフレーションが起きた。その結果、16
年間で貨幣価値が1垓3千京分の1になったという。普通のインフレーションでは貨幣価値は時間
の指数関数程度に大きくなるから、ハンガリーのインフレーションは明らかに異常なインフレーシ
ョンであり、相が異なると考えるのが合理的である。あたかも磁気相転移のように、投資家の思考
一方向にそろってしまうためにバブル・暴落相が出現するのである。このように、相転移という
概念は、物理現象だけでなく、経済現象を捉えるのにも役立つと考えられている。さらに、経済物
理学では、相転移だけでなく、複雑系を理解するためのキーワードである、フラクタル自己組織
・ネットワーク・カオスなどの概念を用いて、市場を理解しようとする。

【物理経済学批判】

経済物理学は新しい学問領域であるが、その対象は決して新しくはない。さらに使われている手法
も物理学では当然のものであり、新たな手法が登場するには至っていない。したがって、市場を伝
統的な手法で研究している経済学者や、主流派の物理学者から様々な批判がなされている。
なぜ物
理学者があえて経済を研究するのか? 経済学者が行う研究とどのように差別化するか?

経済学には、事実解明的分析規範的分析の2種類の分析手法がある。経済物理学の知見は、事実
解明
的分析には役立つかもしれないが、社会の規範を作ったり、政治的な判断を要したりする場面
で利用するこ
とができるのだろか?

この批判に対し、研究方法は急には変えられない。経済学者に物理学的な手法を期待するのは無理があ
る。また、経済を研究すれば、新たに複雑系を理解する手法が現れるかもしれない。物理学的手法では、
確かに事実解明的分析が主になるだろう。規範的分析を行うには、工学的アプローチのほうが向い
ているかもしれない。歴史的にも、物理学は「なぜ」を追求してきたのであって、「どのようにし
て」にはあまり興味が無い。逆に、経済学は「なぜ」と「どのようにして」が未分化なのである。

などといった反応がある。



【複雑な進化の経済学】

以上のことを踏まえ、物理経済学と複雑系経済学を比較してみよう。複雑系経済学( Complexity
economics) とは、経済を複雑系として捉える経済学のアプローチ。一般に非線形で、要素間の相

互依存性が強い系は複雑系となる可能性がある。特に経済学にとっては要素の数が多いことや収穫
逓増現象が重要であり、経済成長における初期値依存性もカオスを生み出し複雑系となる。要素の
数が多いとき、個人は必ずしも最適な選択を行うことが時間的な制約の理由によりできない。これ
では通常の経済学が想定するような完全合理性が成立せず、経済主体は限定合理性の下で行動する
ことになると考えられる。また、動態的な意味での収穫逓増が成立するときには、最終的な均衡の
状態が唯一ではなく、0、ないしは複数ということもあり得る。複数の均衡が存在する場合、どの
均衡に到達するかは初期状態、経済主体の予想などの要因によって決定する。これを経路依存性と
いう。さらに、最終的な均衡もパレート最適であるとは限らない


現在の経済学の主流である新古典派経済学は、収穫逓減と無限合理性の仮定のもとに成立し、前者から
供給関数、後者から需要関数が構成されるが、これらの仮定は理論の必要上前提されるものであり、現実
と掛け離れていることがわかっている。これは、経済をすべての情報が瞬時に処理され、収益機会
がつねに存在しないような世界=均衡と見なしていることによる。それでは解明できない現象が多
すぎ、均衡理論の罠にはまってしまっている。この状態から救済するために、新しい経済学の基礎
から再構築する運動として複雑系経済学が位置づけられている。

コンピュータに組み込んだエージェント(人間もどき)の行動による市場過程の研究であるが、現
実の人間がマシーン・エージェントととも参加する仮想市場を形成して、より大規模な金融市場の
シミレーション実験を試みる計画も進んでいる。それがU-Mart計画である。具体的にはインターネ
ット網を使い、たとえばJ30など現実には存在しない先物市場を形成することを通して、価格変
動の性質や各種エージェントの優劣、さらには(ストップ安などの)市場の諸制度の有効性などを
実験的に検証していくことが計画されている。それは、経済をすべての情報が瞬時に伝わり処理さ
れ、収益機会がつねに存在しないような世界=均衡とは見なさない。

この複雑系に会わせるかのように、進化経済学的アプローチも盛んに研究されている。その進化経
済学に特有な概念・視点・分析手法は多様であり、新たな時間・空間概念、限定合理性(満足化)、
知識の学習、定型行動に基づく経済主体、商品・技術・組織・市場・制度・ルールなどの多様な複
製子(選択単位)、個体群思考、遺伝、個体発生と系統発生、自然選択と突然変異、非線形性をも
つ複雑系のダイナミズム、自己組織的臨界とべキ法則、進化ゲーム理論、エージェント(擬似人間
)・シミュレーションなどである。グループあるいは研究者ごとに何を強調するかは異なっており、

それゆえ、進化経済学の定義や境界基準は必ずしも明確でないものの、 経済が進化することを認
識し
ようとする経済学も進化するという遺伝子の二重性のようなごときアプローチと喩えられる。

さて、これまで縷々述べてきた、新自由主義の批判的論考に取り上げてきたポスト・ケイジアンと
複雑系経済学あるいは進化経済学との相互浸潤という流れのなかで、その計算経済学、計量経済学
的アプローチにはデジタル・コンピューティングが不可欠であり、この論考の目的としても手段と
しても、デジタル革命という技術革新が綿密に絡んでいることはいうまでもなく、喩えてみれば、
デジタルという物理学とケインズというマクロ経済学の融合、つまりは、デジタル・ケインズとい
う有力な創生概念をもって、多くの世界中の勤労国民が分断支配され沈滞した社会経済の諸問題の
解決に役立っていくだろうと期待するものである。


 

【共生と贈与の社会実現】 

さて、ここまでポストフォーディズムとして登場した新自由主義の歴史的背景を俯瞰し、その批判
的展望に
ついて考察してきた。まず、デヴィッド・ハーヴェイは、『新自由主義-その歴史的展開
と現在』であきらかにしたように、「市場は競争的で公正であるという理念は、企業と金融の権力
の途方もない独占化、集中、国際化により否定され、各国内でも(中国、ロシア、インド、南アフ
リカなど)、国際的にも、階級間・地域間の不平等が拡大し、新自由主義世界が完成する途上での

「過渡的」なものであると言ってごまかすことができぬほど深刻な政治的諸問題を生じさせており
新自由主義が、支配階級の権力回復プロジェクトの偽装レトリック」が暴いてみせ、翻訳者の渡辺
は「多くの国民が、自民党も民主党を拒否し、構造改革でもない利益誘導政治でもない、新しい福
祉国家の道を、財源問題も含めて対案として示す必要があるとし、新しい福祉国家の道をめざす柱

は、①憲法25条に基づく社会保障の全体像と社会保障の強化、②大企業の法人税を引き上げ、消費
税増税に頼らない安定財源の確保、③大企業本位でない経済成長政策、④福祉国家型の真の地方自
治、⑤日米安保体制のない日本の安全とアジアの平和―憲法9条を生かすこと」を提示している。

また、ポール・デヴィッドソンは、『ケインズ・ソリューション-グローバル経済繁栄の途』で、
「そもそもケインズの誤用の核心とは-ケインズ革命の幕開けを予告した「生産の貨幣理論」と題
する論文で、ケインズは古典派理論が 物々交換経済ないし実物交換経済のパラダイムに基づいて
いるのに対し、ケインズの目指す分析対象が古典派とは異なる原則と目的に基づいて組織された
『貨幣経済』にあることを強調する。貨幣経済では貨幣が枢要な要因となっており、貨幣は経済主
体の動機や意思決定に影響を及ぼす。こうした貨幣経済思想は、当然のことながら、『一般理論』
に引き継
がれ、『一般理論』の序文や第1章で、古典派理論の基礎となっている前提が現実の世界
と大きく乖離し、
実際の貨幣経済の分析にとって不適切であり、貨幣が「本質的かつ独特な仕方で
経済機構に入り込
む」、貨幣経済の理論は、貨幣が形式上存在してはいるが中立的な要因であるに
すぎない実物交換経済とは、根本的に異る」と、新自由主義の一角を形成する新古典派経済学を、

ケインズの流動性選好説を(新)古典派の効率的市場理論に対する対抗軸として捉え、複雑系経済
学者の塩沢由典も「現在の経済学の主流である新古典派経済学は、収穫逓減と無限合理性の仮定の
もとに成立し、前者から供給関数、後者から需要関数が構成されるが、これらの仮定は理論の必要
上前提されるものであり、現実と掛け離れていることがわかっている。これは、経済をすべての情
報が瞬時に処理され、収益機会がつねに存在しないような世界=均衡と見なしていることによる。

それでは解明できない現象が多すぎ、均衡理論の罠にはまってしまっている」と批判し突き崩さた。


【デジタル革命と贈与経済】

このことは、すでに19世紀の中頃、カール・マルクスは、「人間の本質」が不変ではなく、また社
会システムの性質を決める決定要因でもないという概念を導入することで、彼の歴史的展開の段階
の図式を始めた。逆に彼は、人間の行動は、それが起こった社会システムおよび経済のシステムの
一つの機能であるという原則を打ち立てる。ほぼ同じ頃チャールズ・ダーウィンは、小さくランダ
ムな変化が時間と共に蓄積していき、経済的な力が強く求められる状況下ではまったく新しい形質
の発現に至る大規模な変化(種分化)になるというプロセスを解釈するための一般的枠組みを開発
した。そして、マルクスが死んだとき、フリードリッヒ・エンゲルスは、墓石のかたわらで「ダー
ウィンが生物学における進化の法則を発見したのとまったく同じように、マルクスは人類史におけ
る進化の法則を発見した。」に述べたというが、このように複雑系あるいは進化系経済学は、均衡
した静的理論ではなく、不均衡な動的理論に立脚する。

さて、こんかいのグローバル経済危機を契機としてわたし(たち)は多くのことを学んだことで今
後の展望も切り拓けているようのみえる。しかしこれは、資本による収奪による再配分の次元での
ことで、大規模な季候変動など地球環境問題など次元を含めると事態はもっと甚大で複雑なものに
みえる。その時の問題解決の流儀ということを環境問題を通して考えてみた。

「われわれの富の源泉と本質は日光のなかで与えられるが、太陽のほうは返報なしにエネルギーを
-富を-配分する。太陽は与えるだけでけっして受け取らない」(ジョルジュ・バタイユ『呪われ
た部分』)とこのようにバタイユは「普遍経済」をイメージした。これを『贈与経済』と言い換え
ることもできる。常にエネルギーが過剰であることは何を意味するのか?生産のためのエネルギー
が、成長のためのエネルギーが過剰に与えられているとことは、太陽エネルギーが無限に与えられ
ていることは「もしもその組織(たとえば一個の有機体)がそれ以上成長しえないか、あるいは剰
余が成長のうちに悉く摂取されえないなら、当然それを利潤ぬきで損耗せねばならない。好むと好
まざるとにかかわらず、華々しいかたちで、さもなくば破滅的な方法でそれを消費せねばならない」
ことを意味していると。エネルギーが過剰に与えられているから、惜しみなく消費せざるをえない
ということが、人間の諸々の経済活動、あるいはもっと広く言えば、諸エネルギーの関係の推移を
位置づけていくことが、バタイユの謂う「普遍経済」の意味だが、地下化石燃料や原子力燃料に依
存せずとも、人類は無償のエネルギーを手にできる段階になっている。そのことは、消費活動に伴
い排出される温暖化ガスが原因となり、引き起こされる世界規模の気象変動の問題が解決され、持
続可能な社会を希求するわたしたちの努力により、光熱費は限りなく、社会的費用として漸近し個
人的な費用としての意味を失っていく。

また、自然との共生のために「生態系」を考えることが重要であることを、中沢新一は、贈り物の
もつ力について触れ、「商品と異なり、贈り物は贈った相手に物だけではなく心の中に何かを与え
る」と指摘し、商品は貨幣との等価交換対象に過ぎないが、贈り物は果てしない心の連鎖を惹き起
こし、そして自然からの「贈り物」を認めて受け取る時、人間の中に新しい何かが芽吹くだろうと
考える。「純粋な自然の贈与」は、ケネーにはじまる重農派が創造した経済概念だが、人々が神話
と物語の世界観から、よりリアルな世界観へ脱皮しようとしたとき、ギリシアの地で発見された概
念といわれる「ピュシス」(普通は自然そのものと解され、自然は時代の進化ともに変転させてき
た)を中沢新一は多用する。このピュシスとは自然が自然として現れるという二重の概念であり、
ピュシスは自然の霊性として現れ、撒かれた種の価値以上の農作物を大地に贈与としてもたらする
という。価値の増殖という謎の現象にメスを入れたマルクスは、『資本論』における価値論の構造
な骨格にこの概念が潜在しているとも指摘している。

以上、このような「共生」「贈与」という概念の援用を背景とし、わたし(たち)は諸問題の解決
のため行動することの他に道がないと思える。
  
                                                          この項了




竜頭蛇尾になることを恐れながら、論考を了とした。それでもこれだけではないだろうが、最近の
時間の早さ
というものが半端でなく、情緒的にも不安定さが増すような毎日だったし、母の見舞い
も途切れるている。そ
れで、ジムをそそくさ切り上げ、母と見舞い話して帰ってきた。そうこうし
ていたら従兄弟の肉親の訃報が入るが、
葬送式に参列周期も随分短くなっている。 

そういえば、帰りの湖岸のクルマに徳永英明の「駅」がながれていたってけ。それで、竹内まりや
を聴き直してみる。

 

 

コメント
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