極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

大蒜工場巡礼の明日

2013年04月27日 | 時事書評

 

 

 

【大蒜への弾圧】

ニンニクが日本に入ったとき、医薬品として貴重な存在であったが、徐々に一般に普及するとと
もに、食品としても使われるようになる。仏教の戒律によりニンニクの禁忌が始まったにもかか
わらず、ニンニクは医薬品として、また食品としても普及・発展していくが、やがて室町時代か
ら安土桃山時代にかけ、中国の金・元および明の医学や南蛮医学が激流のごとく入り込んできた
と同時に、新しい生薬が中国・朝鮮や南蛮から入ってくる。『本草綱目』のニンニクのくだりは
庶民に受け入れられた医薬品として疾病に対するニンニクの新しい使い方を紹介し、独自の医療
に育っていったことを物語っている。悪臭にもかかわらず、食品として、調味料として広く普及
しだした。

しかし、ニンニクの使用に再び陰がさす。その第1の理由が徳川幕府が政権維持のために仏教を
利用したが仏教のなかでも禅宗であったことによる。家康は金地院崇伝を僧録司、禅宗全休を司
る地位に重用。崇伝は寺院法度(1615年)を布告し、仏教管轄権を朝廷から幕府に移すなどして
勢力を仏教各派全体に及ぼすようになっ宗門を改めた。「宗門改め」の制度は庶民をよりいっそ
う仏教にむすびつけ、ニンニクの禁忌が庶民にまで強く要求されていくことになる。不浄の理由
が「婬を発す」であったのが「悪臭]に比重が置かれるようになる。この影響はまず徳川幕府の
大奥、大名屋敷においてあらわれ、町人階級や庶民へと拡まっていった。江戸から各地方都市に
も拡がり、都市でのニンニクの使用が滅少する。第2の理由には新しい医薬品の出現である。鎖
国により海外から輸入される医薬品は減少したが、依然輸入され高価で売られていた。輸入品の
代用で生まれた国産品が数々登場し、医師はこぞって新しい高価な医薬品を使った。特に養生・
養命のための医薬品(補薬)が豊富に出まわり、当時江戸八百八町では生薬屋が一番多いといわ
れていた。養命酒が出現したのもこの頃。ニンニクの欠点は市場性(商品価値)がなかったこと
である.安価で保存がむずかしく、他の補剤と併用できないことと、単品で生または簡単な加工
でしか使えないことにもよる。

このため、ニンニクが対応していた疾病に他の生薬が使われるようになる。1716年、八代将軍吉
宗はキリシタンに関係しない洋書の輸入売買を許可し、医学・薬学の領域は急速に西洋の新知識
を摂取し、蘭学が盛んになる。新しいヨーロツパの生薬が堰を切ったように入り、蘭学は蘭方と
呼ばれ、それに対して日本の伝統医学は漢方と呼ばれるようになる。清の弱体化にともない中国
医学も衰退し、中国本草に対する依存度が低下、日本の医師による薬物書の編纂が著しく増加し、
独自の薬学が展開する。幕府や各藩は薬草栽培を奨励し、本草家は物度会を主催し、民間におけ
る博物学の普及に努めた。人参栽培の成功、国産薬材の輸出もはじまり、国産生薬は中国のみな
らずヨーロッパにまでも運ばれた、当時、使われていた医薬品数は世界一であり、庶民の医療(
病気、健康、長寿)およびその医薬品に対する知識の豊富さは世界一であったといってもいいす
ぎではない。しかし、奨励されたニンニク栽培はだんだん陰をひそめ、医薬品としての使用もま
すます辺境へと押しやられていった。

1778年、ロシア船が松前藩に通商を求めてきた頃、幕府は内政商の行き詰りから国力が弱体化し
てき
た。さらに追い打ちをかけだのは西欧諸国の進出と天災で、医学は析真誠が台頭し、後世誠
古方派と乱雑を極めた日本の医学ははじめてその体系が整備されたが、西洋医学に押され衰退し
ていったが、薬草の増産奨励と産業化は最高潮に達する。本草書も考証学の発達とリンネの植物
分類の採用など西洋博物学の受け入れで、薬用植物学が躍進し、実証的薬効の探求が行われた。
逆に、日本から中国へ医学書(『束医宝鑑』、『聖済絶縁』など)が輸出されるが、文明の衰退
により生薬屋の店頭から養生・養命に関する薬物は減り、生薬屋すらも減っていく。ニンニクの
養生・養命に対する効果も少しずつ忘れ去られていった。



ここにきて,何故『大同類聚方』には医薬品としてのニンニクの利用が少なく、『医心方』には
多いのかという疑問が解決。『医心方』には当時のことがそのまま記述されているが、『大同類
聚方』はたえず書き直され、江戸時代後期にニンニクの使用例が削除されていったと見られる。
第3の理由には「生類憐みの会」などによる肉食の禁止である。中国では鶏・肉とニンニクの会
食禁が述べられているが、わが国では肉の悪臭を消し味を良くすることが述べられているものの
肉食の禁止によりニンニクの使用も減る。やがて食品としての使用も辺境へ押しやられていった。

とどめを刺す事態が明治7年(1874年)に起きる。西洋医学を採用した明治政府の医制の発令に
より、漢方、
すなわち、伝統医学は壊滅的打撃をうけた。ニンニクは薬局方にも採用されず,辺
境の地の医師達がごくわずかに使っていた医薬品としてのニンニクが、徐々に消え、食品として
かろうじて生き残っる。明治3年(1870年)の神仏分離令による仏教排撃で種々の戒律が破られ、
肉食などが復活するが、ニンニクの悪臭は不浄という概念が戒律を離れ一人歩きしだし、そのた
め食品としてもはなばなしく復活できなかった。

その後,合成医薬品の安全性に関する問題が多発し、1960年頃から伝統医タ活かヨーロッパではじ
まっる。ニンニクもヨーロッパでは医薬品として復活。日本でもニンニクの研究が高まり、スコ
ルジニン成分が抽出され、その抽出エキスはオキソアミヂン(厚床商品名)、加工大蒜(一般名)
と呼ばれて医薬品原料として承認され(1957年頃)、加工大蒜を加えた製品が数多く市販されて
いる。ヨーロッパではスコルジニンの存在に早くから疑問が発せられ、加工大蒜の品質(安定性)
に関しても問題があがっている。1966年、自然熟成法による無臭ニンニクエキス配合の医薬品「
キョーレオピン」が発売。しかし単独のニンニク製品はアメリカと同様、医薬品としては認めら
れていない。




アメリカでは1994年にすべての植物性生薬が栄養補助食品として認定され、いまやニンニク製品
の売り上げは第1位であるが、最近、アメリカはニンニクを含む強精の植物性栄養補助食品にU.
S.P.やN.F.の規制を設けた。日本でもニンニクは健康食品として脚光を浴び、町にはニンニク料
理やその専門店が氾濫し、食品として市民権を再び獲得する。問題は、ニンニクが医薬品として
復活できるかどうかであり、ニンニクの加工法により含有成分が異なり、不安定な物質が合成さ
れることもあり、異なった薬理作用をもつ物質ができる。このためそれぞれの加工法によってつ
くられたニンニク製剤の品質の安定性、薬効、安全性、他剤との相互作用の検討が必要とされて
いる。ニンニクを眠りからさまさせ、医薬品としてのルネッサンスを迎える日が近づいてきたが、
アメリカ、日本ではいまだ食品の範囲であり、医薬品としてのルネッサンスを迎えるのはいつの
ひになるだろう?! 


【爆発性感染症予防技術】

中国での鳥インフルエンザが問題となっている。感染症とは、細菌、真菌、ウイルス、寄生虫、
異常プリオン等の病原体の感染によって生じる病気の総称で、感染しても症状を呈さないもの(
不顕性感染)や、感染後に症状が出るものも含めて一連の流れとして感染症と称されている。感
染症については、微生物学、免疫学、薬理学、内科学、外科学、公衆衛生学等の進歩を背景に感
染症の診断、治療、予防を扱う感染症学が発展しつつある今日であっても、世界全体では未だに
死因の約4分の1を感染症が占めているといわれる。特にマラリア、結核、AIDS、腸管感染
症は発展途上国で大きな問題であり、先進国においても多剤耐性菌の蔓延や、高度医療の発展に
伴い、手術後の患者や免疫抑制状態の患者における日和見感染が増加する等、完全な解決に向か
っているとはいえない状態にある



感染症は体内の様々な器官で発生し、例えば、脳炎、鼻炎、咽頭炎、肺炎、感染性心内膜炎、肝
炎、腸炎
等、その感染した器官において主に炎症を引き起こす。感染原因が細菌やウイルスであ
って、静脈炎、心内膜炎、又はリンパ管炎の病巣を菌の供給源とした臨床症候群を敗血症と呼ぶ。
敗血症は全身性炎症反応症候群であり、無治療では、ショック、多臓器不全、播種性血管内凝固
症候群(DIC)等から早晩死に至ることがある。敗血症は元々体内の免疫力が低下した場合に
合併して発症することが多いことから、その治療成績も決して良好とはいえない。敗血症の診断
は、白血球数や血清中のC反応性タンパク(CRP)等の一般的な炎症反応の検査とともに、血
液培養による原因菌の検索も行われている。原因菌の特定は敗血症の治療方針の決定に重要であ
るが、菌の培養に時間がかかることから数日~1週間という時間を要する。従って、原因菌が判
明するまでの間は、原疾患や病態から感受性の高いと思われる抗生物質を投与し、原因菌が判明
した後に当該菌に感受性の高い抗生物質が投与されているが、
炎症の診断では、CRPが代表的
な診断用マーカーは既に炎症が起きている場合にその値が上昇するもので、感染症の早期診断と
いう観点ではCRPのみの検査で完全でないため、反応性に富びかつ高感度な感度感染症の疾患
マーカーが求めている。感染症の診断用キットで、染症、特に敗血症を迅速且つ早期に診断する
ことのできるツールの開発研究が進められている(参考@下図クリック)。

 

理想的なことをいえば、例えば関西空港で、血液を少量摂取し、測定器に掛ければ、感性症の発症が数
秒で判定できるという夢のような(理想を言えば、非接触で測定できればよいが)検査システム
が実現す
れば、予防効率はグ~ッと上昇。どん欲な人類の欲望は未知なる世界に飛び出しつつあ
るが、宇宙旅行が簡単にできるような時代になれば新たなる感染症の脅威に曝されるリスクも拡
大するだろう。この欲望の連立方程式を解く努力はまさにイタチごっこ、マツチ-ポンプの世界
だ。粛々とこれに対応する叡智を信じる他ない。

 

 


  週末、つくるはジムのプールに行く。ジムは彼の住んでいるマンションから自転車で十分の
 距離にある。彼のクロールのペースは決まっていて、千五百メートルを三十二分から三十三分
 かけて泳ぐ。もっと速く泳ぐスイマーがいれば、脇に寄って先に行かせる。他人とスピードを
 競うことはつくるの性格には合わない。その日もいつものように、自分と似たスピードで泳ぐ
 スイマーを見つけ、同じレーンに入った。痩せた若い男だった。黒い競泳用の水着に黒いキャ
 ップをかぶり、ゴーグルをつけている。
  泳ぐことは身体に蓄積された疲労を和らげ、緊張した筋肉をほぐしてくれた。水の中に入る
 と、他のどこにいるより安らかな気持ちになれた。週に二日それぞれ半時間ほど泳ぐことで、
 彼は身体と精神のバランスを穏やかに保つことができた。また水中は考えごとに適した場所で
 もあった。それは一種の禅のようなものだ。いったん運動のリズムに乗ってしまえば、頭の中
 に思考を束縛なく漂わせることができる。犬を野原に放つように。




 「泳ぐのは空を飛ぶ次に気持ちの良いことなんだ」と彼は一度沙羅に説明したことがある。
 「空を飛んだことはあるの?」と沙羅は尋ねた。
 「まだない」とつくるは言った。

  彼はその朝、泳ぎながらおおむね沙羅のことを考えていた。彼女の顔を思い浮かべ、彼女の
 身体を思い浮かべ、彼女とうまくI体になれなかったことを思った。そして彼女が□にしたい
 くつかのことを思い出した。「あなたの中で何かがつっかえていて、それが自然な流れを堰き
 止めているのかもしれない」と彼女は言った。
 そうかもしれない、とつくるは思う。

  多崎つくるは人生を順調に、とくに問題もなく歩んでいる。多くの人々がそう考えていた。
 名のある工科大学を卒業し、電鉄会社に就職し、専門職に就いている。仕事ぶりについては社
 内でも安定した評価を得ている。上司にも信頼されている。経済的にも不安はない。父親が亡
 くなったとき、まとまった額の遺産を相続した。都心に近い、利便の良い住宅地にワン・ベッ
 ドルームのマンションを所有している。ローンも抱えていない。酒もほとんど飲まず、煙草も
 吸わず、金のかかる趣味を持っているわけでもない。というか、実際ほとんど全を使わない
 とくに倹約しているのではないし、禁欲的な生活を送っているわけでもない。ただ単に金の使
 い途を思いつけないだけだ。車も必要ないし、洋服の数も少しで間に合う。ときどき本やCD
 を貿うが、たいした額ではない,食事も外食より自炊することを好み、シーツも自分で洗濯し
 アイロンまでかける。

  だいたいにおいて無口で、人付き合いはあまり得意ではないが、かといって孤立した生活を
 送っているわけではない。日常的にある程度まで周囲に合わせて行動することはできる。進ん
 で外に出て女性を求めるようなことはしないが、これまで交際する相手にとくに不自由したこ
 ともなかった。独身で顔立ちも悪くなく、控えめで、身なりも清潔だ。だから誰かが、向こう
 から自然に近づいてきた。あるいはまわりの人々が知り合いの独身女性を紹介してくれた(沙
 羅もそのようにして知り合った相手の一人だ)。

  三十六歳で、一見優雅に独身生活を楽しんでいる。身体は健康で、贅肉もついていないし、
 病気ひとつしたことがない。蹟きのない人生だ、普通の人々はそう考えるだろう。母親や姉た
 ちもそう考えていた。「あなたの場合、一人暮らしが気楽過ぎるから、なかなか結婚する気に
 なれないのよ」と彼女たちはつくるに言った。そして見合いの話を持ち込むのもやがてやめて
 しまった。同僚たちもみんなそう考えていた。

  たしかに多崎つくるはこれまでの人生において、不足なくものを手に入れてきた。欲しいも
 のが手に入らずつらい思いをした経験はない。しかしその一万で、本当に欲しいものを苦労し
 て手に入れる喜びを昧わったことも、思い出せる限り一度もない。高校一年生のときに巡り合
 った四人の友人たちが、おそらくは彼がこれまでに手にした中では最も価値のあるものだった。
 しかしそれは彼が自分の意思で選んだというより、天の恵みのように自然に彼のもとに巡って
 きたものだ。そしてもうとうの昔に--やはり彼の意思とは関係のないところで--失われて、
 しまった。あるいは取り上げられてしまった。

  沙羅は彼が求めている数少ないもののひとつだ。まだ揺らぎのない確信を持つところまでは
 いかないが、彼はその二歳年上の女性にかなり強く心を惹かれている。彼女に会うたびに、そ
 の思いは強いものになっていった。そして今では彼女を手に入れるためにはいろんなものを犠
 牲にしてもいいと考えている。そんな強い生の感情を抱くのは、彼としては珍しいことだった,
 それでも--どうしてだろう--いざとなるとことは順調に運はない。何かが現れて流れを阻
 害することになる。「ゆっくり時間をかければいい。私は待てるから」と沙羅は言った。でも
 話はそれほど簡単ではないはずだ。人は日々移動を続け、日々その立つ位置を変えている。次
 にどんなことが持ち上がるか、それは誰にもわからない。

  つくるはそんなことを考えるともなく考えながら、二十五メートル・プールを息の切れない
 ペースで往復した。顔を軽く片側に上げて息を短く吸い、水中でゆっくり吐いた。その規則正
 しいサイクルは距離を重ねるにしたがって、次第に自動的なものになっていった。片道に要す
 るストローク数もぴたりと同じになった。彼はそのリズムにただ身を任せ、ターンの回数だけ
 を数えていればよかった。同じレーンの彼の前を泳いでいる男の足の裏に見覚えがあることに、
 やがてつくるは気づいた。阪田の足の裏にうり二つだった。彼は思わず息を呑み、そのせいで
 呼吸のリズムが乱れた。鼻から水を吸い込み、泳ぎながら呼吸を再び安定させるのに少し時間
 がかかった。肋骨の檻の中で心臓がこつこつと硬く速い音を立てていた。

  間違いない。灰田の足の裏だ、とつくるは思った。大きさも形も、簡潔で確かなキックの打
 ち方もまったく同じだ。それが水中で立てる泡の形も同じだ。足の動きと同じように、泡も小
 さく柔らかく、リラックスしている。彼は大学のプールで、阪田の後ろを泳ぎながらいつもそ
 の足の裏を見ていた。夜の道路を運転する人が、前の車のテールライトから目を離さないのと
 同じように。そのかたちは彼の記憶に鮮やかに刻み込まれている。
  つくるは泳ぐのを中断して水から上がり、スタート台に腰かけてスイマーがターンして戻っ
 てくるのを待った。 

  でもそれは阪田ではなかった。キャップとゴーグルのせいで、顔つきまではわからなかった
 が、よく見ると灰田にしては身長がありすぎたし、肩の筋肉がつきすぎていた。首のかたちも
 まるで違う。また年齢も若すぎた。おそらくまだ大学生くらいだろう。灰田は今ではもう三十
 代半ばになっているはずだ。
  しかし人違いだとわかっても、つくるの心臓の鼓動はなかなか収まらなかった。彼はプール
 サイドのビニール椅子に座って、見知らぬスイマーの泳ぐ姿をいつまでも眺めていた。無駄の
 ない美しい泳ぎだった。フォーム全体が灰田のそれによく似ている。そっくりといってもいい
 くらいだ。しぶきも立てないし、無駄な音も立てない。肘が美しくすらりと宙に持ち上がり、
 親指から静かに入水する。決して急いではいない。求心的な静けさを保つことがその泳ぎの基
 本的なテーマになっている。しかし泳ぎ方がどれだけ似ていても、それは灰田ではない。やが
 て男は泳ぎやめて水から上がり、黒いゴーグルとキャップを取り、タオルで短い髪をごしごし
 と拭きながらどこかに行ってしまった。灰田とはまったく雰囲気の違う、角張った顔の男だっ
 た。
  つくるはそれ以上泳ぐことをあきらめ、ロッカールームに行ってシャワーを浴びた。そして
 自転車に乗って部屋に戻り、簡単な朝食をとりながら思った。灰田もおそらくおれの中につっ
 かえているものごとのひとつなのだと。




  フィンランドに旅行するための休暇はとくに問題もなくとれた。彼の有給休暇はこれまでほ
 とんど使われないまま、軒下の凍った雪のように積み上がっていた。上司に「フィンランド?」
 と径冴な顔をされただけだった。高校時代の友人がそこに住んでいるので会いに行くん
です、
 と彼は説明した。この先フィンランドに行く機会もあまりないと思いますし。

 「フィンランドにいったい何かあるんだ?」と上司は尋ねた。
 「シベリウス、アキ・カウリスマキの映画、マリメッコ、ノキア、ムーミン」とつくるは思い
 ついたことを並べた。
  上司は首を振った。どれにも興味がなさそうだった。
  つくるは沙羅に電話をかけ、成田・ヘルシンキ直行使の予定に合わせて具体的な日程を決め
 た。二週間後に東京を発ってヘルシンキに四泊し、東京に戻ってくる。
 「クロさんには連絡してから行くの?」と沙羅は訊いた。
 「いや、このあいだ名古屋でもそうしたように、予告なしで直接会いに行こうと思う」
 「フィンランドは名古屋よりずっと遠くにある。往復の時間もかかる。行ってみたらクロさん
 は三日前から夏休みをとってマジョルカ島に出かけていた、みたいなことになるかもしれない
 わよ」
 「それならそれでしかたない。のんびりフィンランド観光をして帰ってくる」
 「あなたがそう思うのなら、もちろんそれでいいけど」と沙羅は言った。「でもせっかく遠く
 まで行くんだから、他の場所には寄らなくていいの? タリンやサンクト・ペテルスブルクも
 目と鼻の先だけど」
 「いや、フィンランドだけでいい」とつくるは言った。「東京からヘルシンキに行って、そこ
 に四泊して東京に帰ってくる」
 「パスポートは持っているわよね、もちろん?」
 「入社したときに会社から言われて、いつでも使えるように更新してある。いつ海外出張があ
 るかもしれないからということで。でも、今でもまっさらなままだよ」
 「ヘルシンキ市内では英語でだいたい用が足りるけど、地方に行くとどんな事情なのか、ちょ
 っとわからない。ヘルシンキにはうちの会社の小さなオフィスがあるの。出張所みたいなとこ
 ろ。そこに連絡してあなたのことを伝えておくから、もし何かわからないことがあったら、そ
 こに行ってみて。オルガという名前のフィンランド人の女の子がいて、彼女はけっこう役に立
 つと思う」「ありがとう」とつくるは礼を言った。
 「私はあさってから仕事でロンドンに行くことになっているの。飛行機のチケットと、ヘルシ
 ンキのホテルの予約は取れ次第、メールでそちらに細かい情報を送っておく。うちのヘルシン
 キのオフィスの住所と電話番号も」
 「わかった」
 「ねえ、本当にアポイントメントなしでヘルシンキまで彼女に会いに行くの? はるばる北極
 圏を越えて」
 「常軌を逸している?」
 彼女は笑った。「私としてはむしろ『大胆』という言葉を使いたいけれど」
 「でもその方が良い結果がでるような気がするんだ。あくまで勘みたいなものだけど」
 「じゃあ、
幸運を析っている」と沙羅は言った。「ねえ、その前に一度会う? 週明けにはロ
 ンドンから戻ってくるけど」
 「いや」とつくるは言った。「もちろん君に会いたい。でもそれより先にフィンランドに行っ
 た方がいいような気がするんだ」
 「それも勘みたいなものなのね?」
 「そうだよ、勘みたいなものだ」
 「あなたはもともとそういう勘が働くタイプなの?」
 「いや、そんなことはないと思う。勘に従って行動を決めたことなんて、これまでほとんどな
 かったから。勘に従って駅を作ったことがないのと同じようにね。だいたいそれが勘と呼べる
 ものなのかどうか、それさえ僕にはよくわからない。ただふとそう感じただけだよ」
 「でもとにかく今回、そうした方がいいとあなたは感じるのね? それが勘であるにせよ、何
 であるにせよ」
  つくるは言った。「このあいだプールで泳いでいるときに、泳ぎながらいろんなことを考え
 たんだ。君のこととか、ヘルシンキのこととか。なんて言えばいいんだろう、直感を遡って行
 くみたいに」
 「泳ぎながら?」
 「冰いでいるとものがよく考えられるんだ」
 沙羅は感心したように少し沈黙の間を置いた。「鮭みたいに
 「鮭のことはよく知らないけど」
 「鮭はとても長く旅をする。特別な何かに従って」と沙羅は言った。「『スター・ウォーズ』は
 見たことある?」
 「子供の頃に」
 「フォースと共に歩みなさい」と彼女は言った。「鮭に負けないように」
 「ありがとう。ヘルシンキから戻ったら連絡するよ」
 「侍っている」
 そして電話が切れた。



                                      PP.230-238                         
                村上春樹 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

 

※レイモンド・カーヴァーの詩「夜になると鮭が」イメージされる。


 


感性症予防のため瀬戸際でこのボーダレス時代にあって一役かっている検察犬が話題となってい
る(参照@巻頭写真)。余りの可愛さに思わずコピー掲載。朝から自治会の役員会に出席し、散
水用
シャワーノズルの漏れ改修を申し訳ない程度にやり、あとはいつもの通り作業継続。いよいよ大型連
休に入る。取り敢えずは比良山系にトレッキングを計画。それから諸々の計画をつくり(映画鑑賞も入れ)、
そして彼女との信州ドライブを入れ計画は終了。後は天気次第。 

 

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