尖閣諸島の領有権を主張する香港人を中心とした活動家の乗ったボロ漁船が現地に着くまでの間、待ち時間があります。
そこで……という訳ではなく、雑談ですし他愛もないことかも知れませんが、私自身には何かやり遂げたような大袈裟な感慨が残ったので記しておきます。
今回の話題はいわば後日談調のもので、前フリがあります。それを下敷きにしていますので、ご迷惑でしょうが下のエントリー2本をまず読んで頂けるとありがたいです。
●今年も、行きます。(2006/08/14)
●出口のない海。(2006/09/18)
……と、上記2本を読んで頂けたことを前提に本題に入ります。
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ちょっと前、先々週でしたか、仕事の打ち合わせで飯田橋方面に出たので、例によって靖国神社参拝のあと、遊就館で零戦を眺めつつ海軍カレーを食べてきました。
靖国神社は都心にありながら四季を感じられる場所のひとつで、しかも高層ビルが周囲に少ないため東京にしては珍しく仰ぎ見れば大きな空。その青空も秋の表情です。
ついちょっと前まで蝉時雨だったのに、今ではイチョウが色付き始めて、並木の近くを歩くと銀杏独特の香りがしました。
そのまま九段下から地下鉄で帰宅しようと思ったのですが、ふと思い出して、道を曲げてみることにしました。靖国通りからちょっと折れて、半蔵門方向へと少し歩いたところにある個人営業の地味な喫茶店。
昨年の8月15日、靖国神社へ行った帰りにたまたま立ち寄ったら、息子夫婦と店をやっているお婆さんが「昔話ですけどねえ」と切り出して学徒出陣の壮行会に自分も見送る側として出た、などと話をしてくれた店です。
若いころからそうなのですが、私はどうもお年寄りの昔話の聞き役にされてしまうことが多くて、オッサンになったいまでもそういうキャラのようです。
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大ぶりなドアを開けてカウベルの音と一緒に店内に入ると、時間帯のせいもあるのですが、他にお客さんはいませんでした。
例によってお婆さんが水を持って注文を取りにきてくれたのですが、私を見るなり、
「おや、あなたは去年の……」
と、1年以上たっているのに私の顔を覚えていてくれたようです。当然ながら、そのとき話したことなども忘れないでいてくれているでしょう。私にとっては都合のいいことです。
そのお婆さん、今回はいきなり昔話に入ることもなく注文を取ってアイスコーヒーを運んで来てくれたのですが、そこで例によって隣のボックスに腰を下ろしてしまい、
「あれからお変わりもなくお元気でしたか?私もあのあと、お参りに行ってきたんですよ」
と雑談モードに入ってくれました。
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「今年も同じ時間に行ったんですけど、小泉首相の参拝とぶつかって、警官も人も多くて大変でした」
と私。
「そう。ようやく8月15日に小泉さんが来てくれましたね。ありがたいことだなあ、と思いましたよ」
とお婆さん。神社としては春と秋の例大祭に参拝することがフォーマルなのでしょうが、戦前・戦中・戦後と、いわば最も割に合わない時代を割に合わないタイミングで生き抜いてきた世代の人にとっては、8月15日の方が感慨深いのかな、と私は今年の終戦記念日にたまたま一緒になったお婆さんのことを思い出しつつ、そう考えたりしました。
「ところでね、お婆さん」
と私は話したかったことを切り出しました。学徒出陣組を主軸に特攻兵器、人間魚雷・回天を描いた「出口のない海」という映画の話です。
「そういう映画をみてきました。神宮外苑の学徒出陣の壮行会の記録フィルムも流れました。すごい雨だったんですね。映画ではみんなズブ濡れになっていましたけど、お婆さんも大変だったでしょう?」
と言うと、そうなんですよあの日は大雨でね、私は学生さんたちが勉強してる途中で兵隊にとられるのが可哀想で可哀想で、今でも不憫に思っているんですよ。……と身体を乗り出すようにしてお婆さんは「昔話」を始めました。勤労奉仕のこと、東京大空襲のこと、敗戦を知って皇居を望みつつ割腹自殺を遂げた人のこと……。
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そのうちに、
「今でも8月15日にはね、靖国神社に昔の格好(軍服)をしてお参りに来てくれる若い人たちがいるんですよ」
と言うのです。生き残ったお年寄りが軍服姿で整列する映像はニュースで流れたりします。その人たち全て、とは言いませんが、中には戦死していまなお若い姿のままの戦友に会いに来るために、当時と同じ軍服姿で向き合うのが自然であり、礼儀でもあると考えている人は少なくないでしょう。
ただ若い人のそれはただのコスプレじゃないかと私は思っていたのですが、お婆さんのような捉え方もあるようです。
「あのときの学生さんたちね、大勢が戦争で死んでしまいましたけど、いまのこういうね、発展した日本を見せてあげたかったですよ」
という沁みじみとした言葉でお婆さんは話を締めくくりました。……いやそれは反則技ですよお婆さん。そういうベタな台詞に私は滅法弱いので困るのです。
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望むと望まざるとにかかわらず、戦争で散華された人たち。むろん、覚悟の据わっていた人も少なからずいたでしょう。
でも、「心ならずも」と小泉前首相が表現していたように、赤紙1枚でいきなり日常生活から引きはがされて戦地に出され、思い悩みつつ、故郷や親しい人たちの面影を慕いつつ、亡くなっていった日本人の方が多かったのではないかと私は思います。
「発展した日本を見せてあげたかったですよ」
という出征した人たちと同世代のお婆さんの言葉に、やっぱり現在とつながっているんだなあ、という思いを新たにした次第です。
戦死した方たちでけでなく、銃後である日本本土で空襲などにより亡くなった人、それに沖縄やサイパン島や南樺太(サハリン)など、自分たちの生活の場がいきなり戦場に変わり、戦闘に巻き込まれて亡くなったり自決した人たちにとっては、「心ならずも」どころではないでしょう。
そういう方々にも、経済大国と呼ばれるまでに復興したいまの日本を見てほしかったなあ、と私は思いました。そして、軍人・民間人を問わず、そういう方々のお蔭でいまの日本があり、私たちが毎日を送っていられることも。
「またお立ち寄り下さいね」
とお婆さんに送り出されて喫茶店を後にした私は、ようやく何事かをやり遂げたという上手く表現し難い気持ちがある一方で、その孫の世代として、お婆さんの想いをどう受け継いで次世代につないでいけばいいのだろう、ということを考えさせられました。
とりあえず、ここにそれを書き留めておきます。
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やや関係のある話として、最後に「氷雪の門」という映画をお勧めしておきます。
終戦直前、突如日本に戦線布告したソ連が、大部隊を以て日本の領土だった南樺太に攻め込んできます。8月15日を過ぎても攻撃をやめないソ連軍に対し、不意を打たれた上に上級司令部からの投降指令で思うように戦えない日本軍。混乱のなか戦火に焼かれる民間人。自らの純潔を守るために集団自決する看護婦たち。本土へ避難しようとした人たちが乗った北海道への船は国籍不明の潜水艦による魚雷攻撃で撃沈されてしまいます。
そんななか、海に面した真岡という街で電話交換手を務めていたうら若き女性たちがこの映画の主人公です。戦争はこの街を見逃すことなく、8月20日(!)にソ連軍が上陸。市街戦が展開されるなか、電話交換手として残った9名の女性たちは、連絡が途絶えればいよいよ事態は混乱すると考え、個人的な事情を二の次にして、最後までその任務を果たそうとするのです。
戦闘で次々と回線が切断されるなか、迫り来るソ連軍。もはやこれまでと覚悟した交換手は、最後に残った1本の電話回線に、
「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」
と呼びかけて回線を切り、9人の乙女は青酸カリで自決します。
30年余り前の作品ですから、CG合成などの演出が浸透している現在の映画に比べれば派手さに欠けますが、淡々と描かれる悲劇が、淡々としているだけに迫ってくるものがあります。それからいまの日本人にはもうないような純朴さ、そして昔風の歯切れのいい日本語が良いです(ただ値段が8000円と高いのがちょっと……)。
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今年の9月ある大学の授業で上京し、翌日のセミナーが3時からと時間が開いたので、初めて靖国神社にお参りに行き、遊就館に入りました。
2階に映画を上映する施設があり、ちょうど「氷雪の門」をしていましたので見ました。
終戦の8月15日を過ぎての攻撃とけなげな真岡の電話交換手さんに涙が止まりませんでした。みなさんも機会があったら見てください。
御家人さんのまねをして、海軍カレーと海軍コーヒを飲んできました。
そうなんです。「氷雪の門」は遊就館の有料スペースで以前から上映されていて、今度観に行こう、今度観に行こうと思っているうちに上映終了となってしまいました。
でももしかして……と思い、海軍カレーの喫茶室同様、無料で入れる1階の売店に行ってみたら果たせるかなDVDが!迷わず購入しました。
あの耳に心地よい日本語(演じた女優もいまでは話せないと思います)、それからお汁粉を食べたりレコードを聴いたりといった交換手たちが楽しそうにしているシーンも忘れられません。
言葉や風習は時代とともに変化していくものですから仕方がありませんけど、あの楽しそうなシーンにはやっぱりもはや死語である「乙女」という言葉が似合いますね。
海軍カレー、masaさんよりひと回り近く年上の母親を連れて行ったら「懐かしい」を連発して嬉しそうに食べていました。
9月末日まで遊就館で上映していることは分かっていたのですが、時間が取れませんでした。御家人さんと同じです。残念。
『氷雪の門』は時々小規模な上映会が行われていますが、ビデオ・DVDレンタル店には一切置いていないので、一般の日本国民の目に触れることは難しいです。制作され上映というときに、ソ連の圧力・妨害と、日ソ関係を危惧した日本政府の圧力でどうも上映中止になったようです。典型的な言論弾圧です。
昭和天皇・香淳皇后両陛下や今上天皇・皇后両陛下も真岡の彼女たちのことを悼む御製・御歌を詠まれていると記憶しますが、国民がその映画を見ることが困難ということです。DVDを買えばいいんですが。
最後に、すでに見ておられるかもしれませんが、「朝日歌壇鑑賞会」さんのblogから『氷雪の門』を紹介した記事を。
http://blog.livedoor.jp/asapykadan/archives/2006-08.html#20060828
いい映画で多くの人に見て欲しいとおもいます。
あのようなソ連の行動は国際政治の厳しい現実です。日本も核の論議くらいしていく必要があり、新聞で騒ぐほど効果がありますね。中国がきらうことをしていかないと。安部さん、麻生さんにがんばって欲しいと思います。
それと私は終戦の前年上海で産まれました。終戦の時は日本でしたので、引き上げ行軍という状況には遭遇していませんが、ちょっとした差だと思います。
少しは中国との関係が良くなったようですので、上海に行こうかと思っています。1時間半で行けるのです。
私の父は、終戦を武漢で迎えたようです。陸軍の輜重部隊所属だったと思います。もともと工業学校を出て、鮮鉄に入り若き鉄道職員として働いていました。
中支では、チフスに罹って死にかけたと生前言っていました。
引き揚げのこと。失礼ですが、上海というのは幸運だったのではないでしょうか。
藤原てい『流れる星は生きている』(中公文庫)を最近読みました。藤原さんは満洲→北朝鮮→南朝鮮→日本です。五木寛之さん(北朝鮮→南朝鮮→日本)の著作と合わせ、深く心を動かされました。
私は藤原てい女史の講演を聴きました。
観客席が涙、涙、また涙のすんごい講演会でした。
映画では『マリア・ブランウンの結婚』(西ドイツ)が良かったですね。
本当に。
ただ、先人たちが守ってきてくれた領土を
ほとんど手放すことになってしまったのは
残念ですね。
関東州も台湾も半島も日本の領土ではなくなったと、英霊に申し上げねばならないのは心苦しいです。
皆様の書き込みにも、心が温まるようです。
さて、話を折ってしまって申し訳ありませんが、手短に「ラジコン」の話をさせてください。
この9月に御家人さんに紹介してもらったトミーの「エアロソアラ」を探しに、先日デパートに出かけてみました。
そしたら、こんな田舎にもありました!
ところが、旋回半径が(たしか)3mと書いてあり、狭い我が家では飛ばすことが出来ないことが判明。
結局は、「エアロソアラ」の横に置いてあったシー・シー・ピーという会社の「ハニービー」(ヘリコプター)を買いました。
上昇・回転の動きしか出来ませんが、結構楽しめます。
高3と小5の娘も喜んで遊んでいます。
「エアロソアラ」を飛ばしたら、感想をお聞かせください。
尖閣諸島へのいいがかりも、軍拡、思想統制、民族浄化もすべて、シナがすでに中華帝国主義の歴史段階に入ったことを示しています。関連の幣エントリーをTBさせていただきます。
実はまだあのヒコーキを飛ばしていません。飛ばしていたら真っ先にこのブログで紹介するのですけど。
やっぱり3m×3mというのがネックになっています。普通の家からすると意外に広いスペースなんですね。家具とか蛍光灯とか突起物もありますし。
親の家ならなんとかなりそうなので、今度実家に戻ったときに連れていきます。
ところで、ヘリコプターの「上昇・回転」というのは前進したりもできるのでしょうか?それなら拙宅でも何とかなりそうです。
ともあれ、いい時代になりました。こういうハイテク玩具が手頃な値段で買えるんですからね。
>あのようなソ連の行動は国際政治の厳しい現実です。日本も核の論議くらい
>していく必要があり、新聞で騒ぐほど効果がありますね。中国がきらうこと
>をしていかないと。安部さん、麻生さんにがんばって欲しいと思います。
全く同感です。安倍首相と麻生外相は、実はすでに連携プレーに入っているのかな?と思ったりします。麻生外相が問題提起を繰り返す役で、「非核三原則は守る」と言い続けている安倍首相は、周辺各国及び米国の動向と国内世論をにらみつつ、機が熟すのを待って仕掛けるのではないか、と。
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