何年経っても、この時期になるとさざなみ立つような感情から逃れることができません。
6月4日は天安門事件(六四)17周年です。
いまこれを書いている6月3日夜、1989年はこの時点ですでに人民解放軍の市民・学生に対する無差別な実弾射撃が始まっていたかと思います。正規軍が、完全武装の歩兵が自動小銃を空に向けてではなく、自国民めがけて直接実弾を発射したのです。
装甲車(歩兵戦闘車?)や戦車までが投入され、「先鋒として敵陣突入」という役目通りのことを行いました。あのキャタピラに轢かれて両足を失った学生もいれば、人間としての形を留めずに文字通りミンチにされてしまった人もいます。もちろん身元などわかろう筈がありません。
歩兵による射撃にはダムダム弾が使用されたとも言われています。誰が書いたものか、色々読んだので忘れてしまいましたが、当時現場にいた大学生の手記の中に、
「畜生、奴ら『開花弾』を使いやがった」
と罵るくだりが出てくるものがありました。また2003年、中共による北京での中国肺炎(SARS)流行隠匿を告発して有名になった蒋永彦医師、この人が天安門事件当時北京の病院に勤務しており、当直医として被害者治療にあたっています。その手記の中にも、本来なら人体を貫通ないしは盲貫(体内に留まる)するだけの筈の小銃弾が、着弾とともに体内で炸裂していたため手の施しようがなかった、という記述があります。
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上で「自国民」とつい書いてしまいましたが、これは私たちの感覚にすぎませんね。なぜなら厳密にいうと「人民解放軍」は中国共産党の軍隊であり、中華人民共和国軍ではありません。その立場からいえば、北京に屯集した市民や学生は国民であろうとなかろうと関係ありません。「党の敵」という認定(定性)がなされれば、容赦なく殲滅して構わない存在なのです。
実際に民主化運動に対しては4月末にまず「動乱」認定があり、武力弾圧に際してはさらにランクアップして「反革命暴乱」と規定されました。インフラを傷つけることを恐れたのか、手榴弾が使われなかったのは幸いでした。
何せ海外プレスが常駐する首都で起きた出来事です。そうでなくても民主化運動の盛り上がりで平時以上に報道陣が集まっていました。ですからこの事件、私たちの常識では考えられないショッキングな映像は全世界に流され、いまもネット上で入手することが可能です。
私も日本のテレビでそれを何度となく見ることができました。ただ、事件当時私は上海に留学生として滞在していたため、そうした映像はリアルタイムではなく、半月後に外務省の「退避勧告」と母校の「帰国命令」によって日本に戻ってから目にしたものです。
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北京の詳細な動きはわかりませんが、上海ではソ連のゴルバチョフ書記長(当時)来訪に合わせた5月18日と19日が市民も大挙参加して運動が最高に盛り上がった時期でした。その19日の深夜に北京市に戒厳令を敷くことが発表されるのですが、当夜、ふだんなら午前0時の「晩安」(おやすみなさい)を最後に放送を終了する上海人民廣播電台(地元の中波ラジオ局)が、23時半すぎから、
「上海人民廣播電台。各位聴衆,本台今天夜裏將有重要新聞要廣播,請注意収聴。中央電視台將播出重要新聞,請注意収看」(こちらは上海人民ラジオ局です。放送をお聞きの皆さん、今夜半に重要ニュースを放送致しますのでこのままお待ち下さい。また、中央テレビ局は重要ニュースを放映しますので御留意下さい)
という不気味な一節を繰り返していました。すでに地方から投入された軍隊が北京に入ろうとしていた時期です。何事が起きるのかと日本人留学生の有志(笑)は私の部屋に集まって固唾を飲んで待っていたところ、飛び込んできたのが北京が戒厳令に入ったというニュースです。これは容易ならぬことになった、と私たちは顔を見合わせました。
そのころ、上海・外灘(バンド)の上海市政府庁舎前で夜通しの座り込みを行っていた多数の中国人学生たちの間では、
「上海にも軍隊が投入される」
という想像ないしは虚言から恐慌が発生していました。要するにパニックになって、その場にいた学生たちが秩序も何もなく、我れ先にとその場から逃げ出したのです。
そのとき現場にいた私たち有志のひとりである日本人留学生が逃げ出す学生をとっつかまえて、これはつまりどういう状況なのかを知ろうとしました。ただし中国語会話が不得手だったためメモを持ち出して、書いてくれと迫ったのです。
パニックに巻き込まれなかったその留学生も肝が据わっていたものだと私は感心しましたが、その求めに応じ、逃げようとする足を止めて差し出されたメモにひとまとまりの文章を書き付けてくれた中国人学生も相当なものです。後で見せてもらったのですが、
「政府はついにファシズムというその本性を露わにした。民主化を求める我々大学生の愛国運動に対し……」
といった内容の、それだけで演説原稿になりそうなしっかりとした文章でした。
――――
……ともあれ翌5月20日以降、市民の運動参加が激減し、学生は連日デモを繰り返していましたが、その勢いが5月末にかけて徐々に衰えつつあるのを私たちは感じていました。NHKの国際放送「ラジオジャパン」をはじめ、VOA、BBCなど海外の短波放送が伝える政情も、趙紫陽・総書記(当時)を筆頭とする改革派の敗勢覆うべくもないことを思わせました。
つまり、上海では民主化運動がともすれば尻すぼみになりかねない状態にありました。そんな中で天安門事件が発生した、というのが驚きでしたし、市民や学生に軍隊が実弾射撃を行って武力弾圧した、というのも私たち外国人はもちろん、私と同世代だった中国人学生の想像をも超えていました。いや、文化大革命をくぐり抜けてきた老教師も、
「学生運動が失敗するだろうとは思っていた。思っていたが、こんな結果になるとは予想だにできなかった……」
と、暗い表情で話してくれたものです。
1989年6月3日の上海というのは、学生によるデモは行われていたものの、終業シーズン(中国は9月が新学期)の空気が漂うなか半ば惰性でやっているという気配がありましたし、学生リーダーたちの間でも今後の方針に関して対立が発生していた時期でした。
その日、私たち留学生は農村ツアーに駆り出されました。生活感のない、外国人や地方からの視察団に見せる目的で作られた郊外のモデル農村を見学させられ、党書記の演説を聞かされ、そのあとは御馳走が出て教師ともどもビールで乾杯を繰り返しました。……不謹慎なようですが、上海はすでにそういう空気だったのです。農村見学は自由参加でしたから、デモが盛り上がっていれば私たちも加わらなかったでしょう。
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一同いい気分になって学校に戻り、留学生宿舎の自室に引き揚げました。ただ習慣となっている上海人民廣播電台と短波放送での情報収集は欠かしませんでした。……すると、また夜になって上海人民廣播電台が不思議な放送を繰り返し始めました。北京市郊外で軍の車両が人身事故を起こし市民4名が死亡した、といったニュースを何回も繰り返すのです。どうやら何かが起きたらしい、いや起きているのかも知れない、とそこでまた有志一同が緊張して集まり、色々考えてみましたが答は出ません。
ちょうど、「ラジオ日本」の夜のニュースの時間でした。これは海外への放送を前提としていないため、NHKのラジオジャパンと違い、条件がよくなければ聞き取れないほど雑音の入る放送でしたが、その夜は幸運にも聞き取ることができたのです。
そこで入ってきたのが、北京で軍隊が学生や市民に無差別に実弾射撃を始めている、というニュースだったのです。あのときの戦慄はちょっと表現できません。そして、他に情報収集の手段を持ち合わせなかった私たちにはそれ以上何もすることはできませんでした。
テレビは1階の応接室にありましたが、職員が帰るときにカギをかけてしまうために入れません(入ってもテレビではニュースを流していなかったと思います)。緊張と興奮が混ざりあった気分と手も足も出ないやるせなさを感じつつ、私たちはそれぞれ床に就くほかありませんでした。
――――
なかなか寝つけなかったのですが、少し眠ったかと思ったところで部屋のインターホンが私に電話が来たことを伝えました。いまは知りませんが、当時は電話は宿舎職員の勤める服務台(宿舎受付)にだけ設置されていて、電話が来るとインターホンで該当者に知らせる仕組みです。
時計をみると6時45分でした。こんな朝早くに……と思いつつ受付に下りて受話器をとると、何と日本の恩師が自宅からかけてきた電話でした。珍しく興奮した声で、
●北京で軍隊が学生や市民に発砲して死傷者が出ている。
●NHK(テレビ)は一晩中北京の映像を流した。発砲シーンもあった。
という趣旨のことを手短かに伝えたうえ、「学校命令」として、
●外地(上海以外の地区)には出ないこと。
●デモに巻き込まれないように十分注意すること。デモ参加などはもってのほか。
●何かあったら御家人まで連絡すること。(同じ学科からの留学者では私が最年長だったので)
……との3項目を宿舎に貼り出しておきなさいと言われました。加えて最後に、つい最前線に飛び出してしまう私の性質を知る恩師は、
「御家人君、あなたも駄目ですよ。デモに参加したらいけませんよ」
と念を押すように言われました。後日留学仲介業者からの連絡もあって、やはり同じことを念押しされてしまったのですが、結局この点だけは私は守れませんでした(笑)。まあ留学先が北京ではなく、オフサイドトラップにも引っかからなかった(1回だけ私服に尾行されて危ないことがありましたがw)という僥倖により、今こうしてブログを書いていられる自分がある訳です(真剣)。ちなみに一時帰国で恩師宅に挨拶に行ったとき「すみません約束を守れませんでした」と正直に白状したところ、恩師は上品に笑いつつ、
「そんなことわかっていますよ。わかっていますけど、一応言っておいただけです。ともかく無事でよかったですね」
と言ってくれました。……まあそれは後日のことです。何はともあれまず仕事。貼り紙を作って貼り出し、一応後輩たちの部屋を回って一声かけておきました。
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そういうことをしているうちに腹が減ってきたのに気付き、近くの馴染みの汚い麺屋に出かけようと校門を出たとき、ふと時計を見たら9時ちょっと前でした。あっこりゃいかんテレビのニュースをチェックしないと、と思ったとき、雲南出身のY君という私と仲のいい学生がのんびり歩いてくるのに出くわしました。
「おい大変だぞ。北京で軍隊が発砲したのを知っているか」
と聞くと何も知らないのです。事態がよくわからずただ驚いてしまっている彼の腕をとって、
「もうすぐ9時だからテレビでニュースをやるだろう。一緒にテレビを観よう」
と留学生宿舎に戻り、応接室に入ってテレビをつけました。
――――
ほどなく9時です。背景が青一色でセットも何もない北朝鮮のテレビニュースを思い出して頂きたいのですが、最初にその青い背景に何の変哲もない大きな文字で、
「重要新聞」(重要ニュース)
という4文字が画面いっぱいに映し出されました。続いてやはり文字だけで、
「新華社消息/戒厳部隊遭到歹徒野蛮襲撃/被迫採取果断措施」(新華社電/戒厳部隊は暴徒の野蛮な襲撃に遭遇し/やむを得ず果断な措置をとった)
「新華社消息/戒厳部隊平息反革命暴乱/進駐天安門廣場」(新華社電/戒厳部隊は反革命暴乱を鎮圧し/天安門広場に進駐した)
という画面が出て、その後北朝鮮のニュース同様女性アナウンサーが登場して、
「党中央の決定を断固擁護せよ」
「反革命暴乱を断固鎮圧せよ」
といった『解放軍報』社説を読み上げました(戒厳令下ですから党中央機関紙の『人民日報』ではなく、人民解放軍機関紙の『解放軍報』なのでしょう)。現場の映像は一切ない、ただそれだけのニュースです。ただそれだけであることが、事態が緊迫していることを強調する効果をもたらしているかのようでした。
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Y君はぼんやりして私の顔を見ています。私もこの異様な画面に呑まれていました。ただいつまでもそうしていられません。Y君には同じ学科のC君にこのことを急いで伝えてくれと頼みました。C君は私の学校の学生運動リーダーのひとりである上に、私にとって最も仲のいい学生のひとりなのです。そして急き立てるようにして2人で留学生宿舎を出て、校門の前でY君と別れました。
私はともあれ食事です。自転車置き場を改造したような露天で汚い馴染みの麺屋へ行って自前の箸(箸持参はB型肝炎が流行していた当時の常識)でうどんのような麺をすすりました。すすりつつ、
●午後には上海大厦(ガーデンブリッジ=「外白渡橋」のそばにある高級ホテル)に香港の新聞(親中紙の『香港文匯報』と『大公報』)が入るからそれを買いに行く。
●買ったら大学に戻って戒厳令布告のときのようにC君にそれを貸す。
●C君はそれを江沢民(当時上海のトップ=市党委員会書記)に潰された『世界経済導報』編集部に持ち込んでガンガンコピーする。
●今夜か翌朝にはそれが南京路など市中心部の目抜き通りに貼りまくられることになる。
……などと行動計画を練っていました(すでに恩師のいいつけを破っているも同然w)。
不気味な仮定ながら、上海にも戒厳令が敷かれるのだろうか、とも考えたりしました。当時、党中央は実際にそのつもりだったようで、事実軍隊が上海市をグルリと包囲するような形で待機していたそうです。最も郊外に位置する大学には戦車を目撃した学生もいた、という話も後日聞きました。
それから数年後、香港でプロのチャイナウォッチャーに教えてもらったのですが、政治生命を賭けて上海での戒厳令実施に反対し続け、ついにそれを防ぎ切ったのは当時市長だった朱鎔基だそうです。ある意味、私の恩人といえるかも知れません。
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現状に背を向けて、とりとめもないことを長々と書いてしまい申し訳ありません。情緒不安定になるこの時期だから、ということで諒として頂ければ幸いです。
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自業自得ではありますが、いまだ解明できていない古代の英知を携える大陸の人々にとって、「盲目的に中央に従え」という意思表示を突きつけられた衝撃はどんなだったのか。
「また数世紀も、我々は他国・他民族より低次元の知性に甘んじなければならないのか」という憤りは計り知れません。繰り返しますが、自業自得ではあるのですが。
「天安門事件の遺族ら肉声 人権団体、ポッドキャストで発信」
ttp://www.sankei.co.jp/news/060603/kok081.htm
90年秋から2年近く、かの地に“遊学”しておりました。私のいた某大学では、なおも当局による有形無形の管理圧力をひしひしと感じさせられましたが、吾爾開希の出身大学であった人●大学はいたって穏やかだったそうな。
そういえば、毎年この日は武警がキャンパスをものものしく取り囲み、構内のデートスポットは終夜照明でライトアップされ、一対児達は立ち入り禁止。校衛隊は隊列を組んで見回り、gong'anの車が青の回転灯をつけて巡回するという念の入れよう。こんな日に鬧するのは、決まって美国人だったような。
あの頃の友人達とは今も付き合いがありますが、みんなどこかで亡国、それも内部崩壊の危機をひしひしと感じているようです。
当時、私は高校の2年生で、当然のように日本におりました。その時代を思い出すに、ゴルバチョフ登場以後の「歴史的変換」が頂点を目指し、急勾配の坂道を必死にもがいているよではなかったとかと記憶しています。
ワルシャワ、バルト三国、そして東西ドイツ。夢にも思わなかった冷戦の終結が、すぐそこにあるような。そんな気分でした。高校生の身の上ながら、「何かすごい瞬間に立ち会っている」気分でした。
そして中国でも学生たちが動いていることを新聞等で読みました。テレビも随分報道していたように思います。学生たちが李鵬首相と会談したり、熱狂的とも言える動きがあったり。
もしかすると支那にも大変革が来るのかと考えもしました。ただ、当時は存命だった祖父(大連で戦闘機に乗ってました)が、「中国の共産党ってのは、そんな甘い組織じゃないぞ」と厳しい顔つきで話していまして、結果はあれでした。
確か部屋で何かをしていたのですが、祖父が珍しく部屋にやってきて私を今に連れ出し、「信じられない」出来事が起きていることを見せてくれたのです。
当時は言葉が出ませんでした。
「死者300人について最も責任を負うべき者は、学生のリーダーだったのだ。
なぜなら、彼らは意図的に、軍の介入と「虐殺」を引き起こそうとしたと、アメリカの映画やテレビのインタビューなどですでに告白しているからだ。」
「この事件で評価すべきは、柴玲たちの冷酷な企みにも負けずに無血撤収を成功させた学生たちと、柴玲たちが期待していたような最悪の事態を食い止めた軍側の指揮者たちである。」
ttp://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20040313
とありますが、これはどう考えるべきなのでしょう。
あの時岸首相が自衛隊の出動を要請したのを
大臣が許可しなくて良かった。
町山智浩氏は、自らのルーツで起きた光州事件や
北朝鮮の弾圧なんかも体制維持に必要だと思ってるんでしょうかね?
不安と(今になっての)悲しさが在りながら、どこか血が騒ぐような感覚です…。
当時日本にいた私は”TVで凄い事が起こってる”という認識以上は実感が沸きませんでした。
(当時はあまり世情に興味が無かったもので)
「きっと両者妥協で終るんだろうな」とナナメに観ていただけでした。
ところが翌朝のニュースでは・・・(汗)。
お蔭様で”なんて酷い事を”という印象だけでした。
が、数ヶ月後(だっけな?)に某ニューズ○ィーク日本語版を読んだ時に戦慄したのが
運動を行なった学生達の処刑記事でした。
もちろん、その写真も去る事ながら記事の
”遺族には何の通達も無く○○元(処刑に使用されたただ1発の銃弾代)の請求書がただ一枚だけ郵送された。”
という旨の文でした。
そして同誌にはアメリカ商社マンのインタビューでは
「しかし中国への輸出は止めませんよ。連中には思いきり高く売り付けて大赤字にしてやりますよ。」
という旨の答えでした。
正直、私はこの両大国に対して抱いた嫌悪感は未だに消えずに残っています。
(※残念ながらソースは残っていないので信用には足らない事を了承ください)
・・・というのが私の拙い天安門事件の思い出です。
そして現在の中国の在り様を見ていると”脱皮しそこなった大国”
という言葉しか浮びません・・・。
それを思うと御家人さんは色々な意味で本当に凄いと唸らせられます。
そして書記をした中国人学生さんの無事を今更ながら祈りたいです。
誤解です。パニックの中で中国人学生にメモを書かせた強者は私の同学(日本人留学生)でして、私ではありません。そのころ私は自室でラジオにかじりついて繰り返し流される李鵬や楊尚昆の戒厳令演説を聞いていました。
>御家人さんのご友人たちは現在掲示板で見る騒ぐだけの連中と大いに違いますね。
私も十数年ぶりにチナヲチを再開したとき、まずそのことに戸惑いました。いまも戸惑っています。ただ、現在の夜郎自大ぶりは、ひょっとすると当時の中国人学生たちが持っていた強い危機感の裏返しに過ぎないのかも知れない、もしそうだったら嫌だなあ、と考えたり、表裏一体なのであればやがて再び危機感が高まる流れが人々の中で生まれるかも知れない、と考えたりします。……てな感じで、私はいまも戸惑い続けている状態です。
もう一度文章を読み直したら、日本人有志の方でしたね。失礼しました。
>>戸惑い続けている状態
そうなのですか。私自身掲示板で見る彼らのレベルの低さ、日本人のネットを荒らしにくる書き込みの低さ、そしてシナの将来に関する彼らのばら色の書き込みを見るにつけ、愚民化政策が進んで将来国家の土台を掘り崩す状態になっているのだろうと思っていました。何しろ彼らの頭の中は自分たちが世界の帝王になっている状態で、国内問題に目が向いていないように見受けられるので。
64天安門当時、私も大学生でした。
事件の起きる少し前のこと、私の通っていた大学にいた欧米からの留学生が「民主化の為に頑張っている中国の学生に対してテントを贈ろうという運動がある。その趣旨に賛同してくれるのならば寄付をお願いしたい」
ということを言うので、それならばと私は幾ばくかの寄付をしました。今思えばたいした金額ではないのですが、お調子者の私は当時としては思い切った額を出し、後でちょっぴり後悔したのを憶えています。
それから十数年経って、中国のある都市に仕事で行きました。
そしてご多分に漏れず、日本では考えられないような中国特有のトラブルの連続、、
ホトホト疲れましたがトラブルを何とか乗り切っているうちに何となく親近感がわいたのでしょうか、社内の同年代中国人スタッフの何人かとはよく食事に行くようになりました。そのうちの一人Aは通訳も兼ねていて、英語も広東語も大阪弁もネイティブ並みというスーパーマンでした。
数ヶ月後に、いつものようにレストランでAと、とりとめもない話(日本語です)をしているうちに64天安門の話になりました。
私が前出の話をすると、彼は真剣な眼差しになって、「テントを見たことがある」と言いました。それを聞いた私が戸惑っていると彼は「実はあの直前まであそこにいたんだ」と言いました。軍が投入されたという噂は広まっていて、どうしようか悩んだ挙句に彼は脱出し、助かったと。しかし友人は沢山殺されたと。その夜は二人で痛飲しました。
私が帰国する時に彼は私の手を両手で握り、何も言わずじっと見つめていました。私もこみ上げるものがありました。
あの時のお金が本当にテントになって届いたのかどうかわかりませんが縁というものが感じられた一夜でした。
80年代の初めにコリアで光州事件がありました。鎮圧した司令官は大統領になり、その後、失脚しました。何人亡くなったのでしょうか・・・・
90年代半ばにタイで政変があり、数百人が亡くなり、死体はトラックでどこかへ運ばれたという話を知人から聞きました。
日本では考えられないことです。真相もよくわかりません。
それでもタイは、すぐ王様が介入するにせよ、今回は再選挙になりました。コリアは、きっとまた同じことが起きそうな気がします。Chinaは、もっともっと恐ろしいことが起きそうな気がします。
フランスの今年の暴動は、死者2人とか・・・途上国と先進国の差は、埋めがたいものがありそうです。60年代の日本は、やはり先進国だったんでしょうね。
人の命の値段が安過ぎるから、械闘なんていってすぐ殺すんでしょうね・・・・・・民度って、命の値段のことかなあ・・・
はずしてしまい、申し訳ないです。
ところで、このWC期間中にセルビアモンテネグロのモンテネグロ側が独立宣言。このタイミングは、台湾にとってまさに2年後への「お手本」になると思います。
大変楽しみなのですが、いやはや最近の台湾はどうなんでしょうか、、、、。モンテネグロの独立も良い方向にいけばとも思います。
日本ではノホホンと「オールナイトフジ」なぞ放送してました。
そこに突然北京からの緊急ニュース。
戦車と機関銃の銃声だけが印象的でした。
あの落差はそれ以後には9・11の夜にしか感じたことがありません。
現状を維持するための暴力、現状を変えるための暴力。
人類の業と言うべきでしょうか。
旅行で北京を訪れ、天安門広場に行きました。
広場に上がる階段が一部欠け落ちていて、よく見るとキャタピラの後?
その後内蒙古自治区に行き、
のんびりとした風情に
「天安門事件はなんだったんだろう」
と思いました。
その内蒙古自治区が今はかなり不安定なようです。
劣化した…
というのが今の中国に対する感覚です。
当時は某東北の港町に友人らと4人で(なにせ学校は急行状態でしたので)物見遊山に行って、6/2夜に2名、6/3夜に私、6/4夜にもう1名とキップが取れなくてバラバラに北京に戻って来て。。。まあ一番混乱した状態で北京駅に着いたのが4日朝に駅を降りた私でした、午前10時に着いてから大学(海淀区)の寮にたどりつくまで約6時間かかりましたよ。。。
会社の中国人はこの2~3年で入社した新人や20代後半は皆事件そのものの記憶や知識がないですね。。。当時の写真を見せて説明すると皆表情が。。。。。こいつらもう中共とは戦えない世代だなと感じます。
http://www.64memo.org/
事件の映像はここにあります。
http://www.youtube.com/watch?v=158ua2r4Qy8
「指揮部緊急通告・・」という当時のニュース映像も含まれているようですが、御家人さんもご覧になったものでしょうか。
『民主主義』『理想』ではなく、
『食べ物をよこせ』『金をよこせ』に
なるのでしょうか。悲しいものがあります。
でもそんな根源的な欲求じゃないと、
あの大きな国は動かないのかもしれませんね。
最近、深センから香港に引っ越してきました。
私も当時は学生でしたが、日本のバブル期の典型的女子大生だったもんだから、「天安門」なんて全く興味ありませんでした。(ただその年の夏休みに学校の研修旅行で中国に行くことになっていたのが事件のせいでキャンセルになり、それで「中国デビュー」が遅れました。それがよかったのか悪かったのかはわかりませんけど)
そんな私ですが、香港に来て、キャンドル集会に参加するようになって、香港人の皆さんのあまりの真剣さに圧倒され、いろいろと思いを巡らせるようになりました。特に97年の六四集会は、返還を約1ヶ月後にひかえ、もう来年からはこんな集会はできなくなるんじゃないか、という危機感でいっぱいで、せまりくるものがありましたね。
それで、昨日も集会に参加しましたが、参加者の数は減ってきてはいるものの、けっこう若い世代が多いのにいつも感心させられます。大学生くらいの子たちから30代前半でも、かなり真剣な面持ちで参加してます。(でも、「中国夢」や「血染的風采」など、六四の歌をがなっているのは、おやじ達)
あ、そうそう、大紀元も元気に活動してましたよ。新聞だけじゃなくて、DVDまで配っていたのでいただいてきました。内容は九評共産党の解説を映像化したものでした。
天安門事件についてはうろ覚えですが(当時小学生)、その直後だったか数年後だったか、市の友好都市である中国某市への少年使節団に参加し、現地で「最近天安門広場で大きな事件があったみたいで…」といったことを発言し、周りを凍り付かせてしまった経験が。
その時はよくわかってなかったのですが、今思うととんでもない発言ですね…
心身を消耗させられていて、激動の時代をきちんと見ておかなかったのを悔やんでいます。
昭和天皇陛下崩御、ペレストロイカ、ベルリンの壁、次から次へと大変な事が続いていました。
下記のサイトで、軍隊投入の実態を今ごろ知って
戦慄したド阿呆です。
http://freett.com/iu/memo/
項目のかなり下のほうですが、天安門の画像が
あります。
文芸春秋から「クレア」という女性誌が出ており、創刊から2、3年は時事ネタなど気合いが入っていました。中野翠さんが、安保闘争と重なり、学生さんがどんどん集まってくるのを見て、
涙がとまらなかった、と対談で発言してました。
そんな、ヌルい記事しか見ていなかったのかも
しれませんが、日本では、発砲は威嚇とか、
死傷者を少なく少なく報道していたような記憶が
あります。コンビニ袋ひとつを手にぶら下げ、
戦車のまえに立っていた青年はどうなったの
でしょうか。
>>コンビニ袋ひとつを手にぶら下げ、
戦車のまえに立っていた青年はどうなったの
でしょうか。
死刑になったと中国人の友人から聞きました。
あの戦車隊の隊長も”なぜ轢き殺さなかったのか?”と
職務怠慢をとがめられて降格処分されたと聞きました。
私は6月3日が土曜日だったので四川北路の虹口公園で
魯迅先生の記念館を尋ねて,戦前戦中の日本と中国のことに思いを馳せておりました。大学の寮に帰ってその日の
夜11時ごろTVがいつもと様子が違うのに気づき”一体何が起こっているのか?"わからなくて友人達と不安と恐怖でまんじりと徹夜したことを覚えています。翌日の朝、日本商社の知人が”天安門広場で軍隊が国民に向かって発砲し学生達を戦車で轢き殺している。”と報せてくれました。後で杭州に留学していた友人に上海の五角場まで人民解放軍が展開していたとききました。朱熔基さんがTVで上海人民に演説をして軍の介入を防いだとこれも後で聞きました。とにかく情報が手に入らなかったのを覚えています。
在上海日本領事館は何の役にも立ちませんでした。何かことがあったらアメリカ領事館に逃げ込もうと友人達と決めいていました。
上海人の友人が昨日まで熱く政治を語っていたのに、6.4以降は”政治のことは北京に任せといたら良い。”といった変わり身の早さには苦笑させられましたが。
※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。