自分史を執筆し続ける重度脳性まひの佐藤栄男(しげお)さん(43)=神戸市兵庫区=が、自分を見つめ直すきっかけになったのが1995年の阪神大震災だった。
ボランティアも全国から延べ約400人が駆けつけ泊まり込んだ。障害者の多くが、住宅再建や被災手続きに追われる親と離れての初めての共同生活だった。それは、これまで経験しなかった健常者と触れ合う機会にもなった。ストレスを抱えながらも24時間顔をつき合わせていると、本音を言い合えるようになった。佐藤さんも同世代の学生ボランティアらと気が合い、仲良くなった。
ただ、佐藤さんは彼らと話していると、障害者同士が普段話す内容とは少し違うと感じていた。若い世代の話題は、共通して遊びのことだ。それは障害者も同じだが、学生ボランティアらが話す内容は、同じ遊びでも海外旅行やスキーなど。スケールが全然違った。
そんなある日、学生ボランティアらが車座になって、自分たちの進路について話し合っていた。企業に就職する、海外留学する……。いつも通り輪に加わっていた佐藤さんはただ一人、その会話についていけなかった。押し黙ったままでいることにいたたまれなくなり、その場を離れた。ショックだった。やり場のない怒りに、心の中でつぶやいた。「なんで俺は就職できんのや」。最初から選択肢が限られている障害者の現実を痛感した。
佐藤さんは「なぜ、障害者・健常者とわざわざ区別するのか。そんなことに疑問を覚え、自分自身の人生を真剣に考えたのが震災だった」と振り返る。
同世代の進路の話には、自分が今まで考えもしなかった気付きも、いっぱいあった。それからは、頭のスイッチが切り替わった。
「障害者にやさしいバリアフリー」の発想ではなく、街に住む人みんなにやさしく、便利になる社会に変えたい。自分は、車椅子に乗っているけれど左手は使える。お互いを補い合う活動があるはずだ。
だが、思いは空回りする。当時、佐藤さんは共働作業所に通っていたが、このまま障害者だけの世界にいることに疑問を感じ、辞めた。「だめもとで」職探しにハローワークにも通った。世の中の厳しさを肌で感じたかったからというが、覚悟していた通り自分に合った職は見つからなかった。
自分の体が思うように動かないことにいらつきもした。施設にいた時は、周りにも自分と同じような人がいて、歩けないことや、思うように手が動かなくても、当たり前と思っていたのに……。
それまで感じもしなかった社会の矛盾が、至る所に見えてくる。でも、自分に一体何ができるのか。苦しむ佐藤さんの内面を吐き出す手段が、自分史の執筆だった。
【編集委員・桜井由紀治】毎日新聞 2018年5月14日
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