ゴエモンのつぶやき

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共生シンフォニー:先進的試み25周年 クッキー新工場落成も--大津 /滋賀

2010年07月05日 01時13分03秒 | 障害者の自立
 障害者が働く場を積極的に展開し、自立を支援してきた社会福祉法人「共生シンフォニー」(大津市大将軍2、明智大二郎理事長)が運営するクッキー製造の「がんばカンパニー」の新工場落成と、同法人の創立25周年を祝う式典が3日、大津市内であり、約300人が出席した。

 同法人は86年に障害者5人の利用で始まった無認可の小規模作業所「今日も一日がんばった本舗共働作業所」が前身。利用者全員と雇用契約を結ぶ先進的な取り組みで、03年に社会福祉法人化。「がんばカンパニー」の他、調理などをする「あんふぁんカフェ」や重度の知的障害者らが弁当を作る「夢創舎」、老人デイサービスセンター「ぬくとば」などを運営している。

 新工場は鉄骨平屋建て延べ床面積約850平方メートル。働く障害者は旧工場の30人から50人に拡大し、旧工場の3倍の日産600キロのクッキーを焼く。

 式典で同法人の中崎ひとみ常務理事(45)は「誰もが幸せに人生を送り、働くことができる社会を作るのが夢。皆さんの力を借り、実現を目指したい」と呼びかけた。

毎日新聞 2010年7月4日 地方版

タンデム自転車を公道で

2010年07月05日 01時10分00秒 | 障害者の自立
視覚障害者ら許可求めて活動

 2人乗り用の「タンデム自転車」を普及させようと、愛好者らが市民団体「セブンナーサリー」を設立した。メンバー15人のうち、4人は視覚障害者だ。代表の友光光子さん(42)は「視覚障害者や、足腰の弱い高齢者でも自転車で外出でき、楽しさや爽快(そうかい)感を得られる」と強調。メンバーは公道での走行許可を目指しており、4日にツーリングイベントを開くなどし、理解を求めていく。

 友光さんは、高校生の時の交通事故がきっかけとなり視覚に障害がある。3年前、夫の信介さん(50)に連れられて、タンデム自転車に乗るイベントに参加。信介さんの後ろに乗り、河川敷を走って風を切る爽快感や自力で運転できる達成感を覚えた。「この乗り物に乗る機会をもっと広げたい」と強く思ったという。

 友光さんはその後、信介さんとともに公園などで走行を楽しんでいたが、公道で走れないことを知って驚いた。視覚障害者や高齢者といった交通弱者でも外出を楽しむことができるタンデム自転車の認知度を高め、公道で走れるようにしたいとの思いから、5月中旬に約15人の仲間とともに団体を発足させた。

 タンデム自転車は、サドルとペダルが前後に2人分ずつ装着されており、ハンドルを操作する前方の運転席に健常者が乗れば、後方に視覚障害者が乗っても安全に走行できる。しかし、小回りが利かず運転が難しいため、安全性の問題から、県内では原則として公道走行は認められていない。県警交通企画課は「2人乗りは慣れていないと危険」と説明している。県内でタンデム自転車を楽しむには、現在は公園や河川敷などで走るしかない。

 セブンナーサリーは、5月30日には真岡市の井頭公園で初の試乗会を開催。公道で走れるようにと、署名活動も行っている。7月4日には午前10時から、宇都宮市柳田町の柳田緑地で、鬼怒川サイクリングロードを走るツーリングイベントを開く。希望者はレンタルでタンデム自転車に乗れる。友光さんは「タンデム自転車がどんなものか体験してほしい」と話している。

(2010年7月4日 読売新聞)

〈兵庫・そして僕は、白球を追う2〉大丈夫、お前は変わらん‎

2010年07月05日 01時07分51秒 | 障害者の自立
 2002年の年の瀬、岡原年秀(36)は病院のベッドの上で考えた。大好きな野球も1歳になる長男の抱っこも、もうできない。

 合成樹脂を製造する機械の低速ローラーに、手袋の先が挟まれた。右腕がそのまま肩まで引き込まれた。

 手袋は3日前に新しくしたばかりで、指先が数センチだけ余っていた。「なぜ、しっかり手になじんだ手袋を使わなかったのか」。何度も後悔した。

 小学2年生から野球を始め、社高時代は二塁手だった。就職した高砂市の企業の軟式野球部で、市内のリーグ戦に参加していた。輝かしい実績があるわけではないが、野球は「人生になくてはならないもの」だった。

 救急車で搬送された病院で、ほかの入院患者を見て思った。「骨が折れても、治るからいいやん」。周りから心配され無理に笑顔をつくってみても、絶望感と孤独さは消えなかった。

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 「こいつは口があるんやから、そんなもん自分でできる」。社高の同級生で遊撃手だった山本和孝(36)は、病院の食堂で言った。

 岡原が入院した2日後、ほかの同高野球部時代の仲間2人と山本の妻、そして岡原で、差し入れのお好み焼きを食べた時のこと。1人が岡原の割りばしを割ってあげようとした。そこに飛んだ遠慮のない言葉に、みな思わず苦笑いした。

 山本の妻は「あんた最低やな」と憤慨したが、岡原は「できる、できる」と気まずそうな表情を浮かべ、左手で割りばしを自分の口元に持っていき、ぱきんと割った。

 実は、見舞いに行く前から山本は、自分だけは今まで通りに接しようと決めていた。

 1年近くたった頃には、人前に出るのを嫌がっていた岡原をマラソン大会に連れ出しもした。

 2人でスタート地点に立った。山本は少し離れ、他の参加者と見比べながら言った。「大丈夫、お前は何も変わらへん。右腕がないだけや」

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 リハビリのさなかに、岡原はたまたま障害者野球を目にした。義足の選手が走っている。障害者が野球をしているという事実そのものに衝撃を受けた。「自分はもう野球は出来ない」という思い込みが消えた。

 04年3月、障害者野球チームの神戸コスモスに入団した。まず、左手で投げる練習から始めた。半分くらいは悪送球だった。「利き手やったら、いけたのに」。そんな言い訳を監督の岩崎広司(60)は聞き逃さなかった。「みんな不自由なところがある。利き手がなかったら、そんなもんどうにかするんや」

 岡原は毎朝出勤前、壁に向かってボールを投げ続けた。

 ポジションはショート。「守備の要」とチームメートからの信頼は厚い。左手で捕球し、ボールをふわりと上げ、グラブを投げ捨てる。すぐにそのボールをつかむと、素早く一塁目がけて投げる。その間、わずか数秒。

 06年に障害者野球の国際大会の日本代表に選ばれた。今年11月に2度目の国際大会がある。そこで活躍することが、今まで支えてくれた仲間たちや家族への恩返しだと思っている。

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 尼崎市の市立尼崎高の野球部グラウンド。バックネット裏の車いすの男が、白い練習着の選手たちを真剣なまなざしで見つめていた。

 西口順一、46歳。1988年にプロ野球の阪急ブレーブスに入団した背番号「50」。腰椎(よう・つい)圧迫骨折で車いす生活となった。

 「あだ名はなんや?」「ブーマーです」。阪急の監督だった上田利治に問われ、84年のパ・リーグ三冠王の名を挙げ、笑わせた。185センチ、130キロの巨漢に豪快なホームラン。確かに「和製ブーマー」と周囲から呼ばれつつあった。

 しかし、開幕前のキャンプで違和感が出始め、4月には骨折。入団から1年もたたずに自由契約となる。1軍出場はなし。恋い焦がれたプロの世界に戻ることは、二度となかった。

 高校卒業時にタイガースの入団テストに落ち、阪神尼崎駅前のバッティングセンターで1年間、マシン相手に打ちまくった。神戸市の社会人チームを経て、一度は野球を離れるが、22歳でプロ入り。苦労の末につかんだ夢だった。

 だからこそ、あきらめ切れない。自由契約になった翌年、復帰を目指して尼崎市の自宅前で素振りをする西口がいた。突然、ひざから崩れ落ちた。後頭部をバットで殴られたような痛みが走った。腰の傷が悪化。もう、まともに歩くことはできなくなった。

 車いす生活が始まると、自宅に引きこもるようになる。街で「阪急にいた西口やろ?」とは言われたくない。部屋では扇風機やゴミ箱に当たり、壊した。クリスチャンだった父・啓一(故人)は何も言わずに祭壇に祈りをささげていたという。「おれのせいや」と思っても、立ち直れないでいた。

 95年の阪神大震災に見舞われたのはそんなときだった。自宅は、崩れ落ちずに残ったが、足の踏み場がない。床の荷物を父親が払いのけ、逃げた。1人では何もできない自分。そして、亡くなった6千余名の命。生かされている意味を、考えるようになった。

 リハビリセンターに通い始め、砲丸投げ競技を薦められた。ようやく一歩を踏み出せた西口を支えたのは、プロを夢見てがむしゃらだった頃の野球への思いだ。押し入れにしまっていたバットを枕元に置き、毎晩、お守りのように握りしめた。阪急時代、1軍にいたブーマーからもらったものだ。99年の障害者スポーツのアジア大会では4位に入った。

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 04年夏、市立尼崎高が21年ぶりの決勝進出を果たした。監督は、阪急時代の先輩の竹本修(46)。そんな縁で、同高のグラウンドを訪ねるようになった。

 土日は試合を観戦し、車で遠征についていくことも。最初は「あのおじさん誰やねん」といぶかる選手たちも、事情を聴き、西口の視線を励みにする。

 「気づくと、豪快なホームランバッターを探していることがある」と西口。「まだ、僕自身がプレーしている姿を見たいのかも」

 ブーマーのバットは知人にプレゼントし手元にはない。もう頼らなくても、やっていける。(敬称略)

朝日新聞

映画の副音声ガイド 25日から制作講座 市アートセンター

2010年07月05日 01時06分09秒 | 障害者の自立
 川崎市アートセンター(麻生区)で、視覚障害者が映画を鑑賞するための副音声ガイド制作講座が二十五日から開かれる。

 全盲の区民の「映画館で映画を楽しみたい」という意見を受けて、一九九七年の「KAWASAKIしんゆり映画祭」から、視覚障害者や聴覚障害者が楽しめる副音声ガイドや字幕付きの上映を実施。同センターも二〇〇七年秋の開館以来、バリアフリー上映に取り組んでいる。

 講座では、作中の情景などをナレーションで説明する副音声ガイドの台本作りを学ぶ。同センターの担当者は「講座を通じ、バリアフリー上映への理解を広め、上映機会を増やしていきたい」と話した。

 講座は全七回で十月三日まで。受講料は七千円。申し込みは往復はがきで十日まで。問い合わせは同センター=電(955)0107=へ。

東京新聞

ハンドサイクル試乗に感激

2010年07月05日 01時04分40秒 | 障害者の自立
 車いすが高性能の3輪自転車に変身、風を切ってすいすいと走ることができる夢のマシン「ハンドサイクル(ハンドバイク)」の道東初の試乗会が3日、カールプレックスおびひろ前と帯広・北愛国交流広場で開かれ、管内外の車いすの障害者・児約50人が体験した。握力のない障害者も自分の車いすに装着するアダプター式で市街地など約3キロを走破して「速い、楽しい」と感激。最高時速40キロが出る「レースタイプ」の購入を決め「北海道1周を」と意気込む障害者もいた。

 福祉車両・用具改造ショップのイフ(帯広、内藤憲孝社長)と、同サイクル輸入代理店のテレウス(千葉県、木戸司社長)が主催した。

 ハンドサイクルは手でハンドルを回してこぐ自転車で、テレウス社が2002年から国内で初めてドイツから輸入。車いすに着脱できる「アダプター式」、競技などに使う専用の「レースタイプ」の2方式を十勝や札幌から訪れた障害者らが体験した。

 変速機のおかげで車いすよりはるかに少ない力で移動できるため、頸椎(けいつい)損傷で握力がない上野文士さん(26)=車いすラグビー選手=は市街地と愛国大橋の上など約3キロを走り「そう快。上り坂も楽だった。面白いのひと言」と感動。レースタイプの購入を決めた帯広の自営業・斉藤伸弘さん(43)=車いすアーチェリー選手=は「これで北海道1周挑戦を」。

 同サイクルはアダプター式で30万円台からと高価だが、児童(18歳以下)では通学用などで障害者自立支援法により購入費の支給を受けている例も道内などであるという。購入を検討する下肢障害の高校生も訪れ、笑顔で快走していた。問い合わせはイフ(0155−38−8380)へ。

十勝毎日新聞社ニュース