11月26日快晴、11月の例会で貸切バスを利用して、『采女~四日市宿~朝日』の宿を散策してきました。
往路、高速道路で事故の為、運悪く2時間ほどの渋滞に巻き込まれ、時間をロスしてしまいました。その影響
もあって、行程の一部はバスを利用し、はしょったところはありましたが、歩いた順に従ってUPさせて戴き
ました。
采女一里塚跡 四日市方面・遠望
采女村町並み 血塚社:杖衝坂を登りきったところ。鳥居の奥にある
血塚の祠は、日本武尊の血に染まった石を集めて葬
ったと伝えられている。
杖衝坂:東海道では、箱根、鈴鹿峠に次ぐ難所の1つ。 金刀比羅宮
また、中央部にある『芭蕉の句碑』には「笈の小文」の
旅で芭蕉が残した「歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬
かな」の句が刻まれている。これは馬で登ろうとしたが
坂が急なため馬の鞍とも落馬したことを詠んでいると
いわれている。
米田山成満寺:真宗高田派、本尊は大日如来。 日永の追分:東海道と伊勢街道の分岐点。茶屋や旅
度重なる火災により、本尊も焼失。 籠が並び、間の宿として栄えた界隈。京都へ往来する
昭和57年に再建、現在に至る。 人はここで伊勢神宮を遥拝した。
名残松:昔は300本余りも続く松並木だったと言われ 日永一里塚跡:江戸からちょうど百里に当たる1里塚
ているが、現在は1本のみ。 跡石標。
雲祥山西唱寺:浄土真宗高田派の寺院。 稲垣末吉翁頌徳碑:明治時代、東京で鉄鋼業を営み
財をなし、地元に戻り地域社会のために貢献された。
また、現在、日永の追分で湧き出る水もこの方の尽力
による。(四日市観光協会談)
長命山薬師堂 日永神社:主祭神は天照大御神をまつる。日永神社と
単称が許されたのは明治40年からである。 創建は
不明である。
日永神社境内の道標:明暦2年(1656)の銘が入っ 林光山両聖寺;宗派は浄土宗である。
た、東海道に現存する最古の道標。
僧侶が伊勢参宮の人々のために建てたもで、もとは
日永の追分にあったようです。
日永山興正寺:浄土真宗高田派、創建は貞観6年(8 丹羽文雄生誕の地:作家、代表作「親鸞」「蓮如」
64)といわれる。 昭和52年(1977)文化勲章受章。
四日市諏訪商店街:アーケードのある商店街ですが 諏訪商店街の中にこんなものをみかけました。
これも、れっきとした東海道とはこんな区間も珍しい。
宿場の面影こそないが、今も町の商店街として栄えて
いる。
諏訪神社:祭神は、建御名方神及び八重事代主命。 手差しの道標:「すぐ江戸道」「すぐ京いせ道」と
社伝では建仁2年(1202)に諏訪大社上下二社を 刻まれており、さらに丸の中に人差し指で方向を示
勧請して創建したと伝えられる。 す手が彫られているユニークな道標である。
四日市宿陣屋跡(代官所):江戸時代享保9年(1724) 力石:お堂建設中、作業にあたった男たちが力比べ
~享和元年(1801)の大和群山藩領時代を除き天領 をしたと伝えられる石120kgもあり、肩まで持ち
であった。代官所は江戸時代を通じこの地を移動する あげられる者はほとんどいなかったとか。
ことはなかった。
光明山常照寺:浄土真宗本願寺派、天文7年(1538) 薬師寺:第51代平城天皇の大同年間(806~10)
釈法導によって開山。 の頃、このあたりで疫病が蔓延し、諸人は大変苦しん
でいたのを知り、弘法大使は薬師如来を掘り、開眼し
た。するとたちまち諸人の難病は平癒していった。
常夜燈 十四川堤の桜並木:富田町を西から東に流れる堤の
両岸1.2kmにわたってソメイヨシノが約800本植え
られています。
善教寺:国指定重要文化財(S34.12)がある。 明治天皇輦石碑:維新の偉業もようやく成って、明治
阿弥陀如来立像は鎌倉中期の作で木造桧材寄木造 天皇は江戸を東京と改称された。明治元年(1868)
で像高79cm。また、胎内納入文書とともに胎内仏と 車駕にて京都を出発し東京へ向われた。その後も
して約800体の摺仏が発見されている。 何度となく行き来され、富田茶屋町、広瀬五郎兵衛方
で少憩をなされた。
長明寺:文治年間(1185~90)に蒔田相模守宗勝が
居城した蒔田城跡といわれ、境内は素堀りの環濠に
囲まれている。 山門は桑名城より移築、天文3年(17
38)刺違切腹の薩摩義士の墓など。
浄土真宗、本願寺派。