友人たちとの忘年会で大変うまかったので、奮発して(それほどでもないか)獺祭(だっさい)の大吟醸を買った。
本当は正月に開けるつもりだったが、待ちきれず年越しそばと一緒にいただくことにした。
「なかなかである」
で、正岡子規に『獺祭書屋俳話』という評論集がある。獺祭とはカワウソが捕獲した魚を食べる前に並べておく習慣を言ったものだが、獺祭書屋とは執筆中に調べもののために引っぱりだした参考資料が、まるで獺祭のように足の踏み場もないほど散らばっていることを言う。正岡子規は散らかった自分の書斎を獺祭書屋と表現したのである。
中央大学のY教授の研究室などはまさにそれ。ドアを開けたとたん、目の前に書棚がそびえ立つ。訪問者はその脇をカニの横ばいのごとく堆く積まれた書物の間にできた畦道を辿って行かねば、奥のデスクに鎮座するY教授のもとにはたどり着けない。
訪問者用の折りたたみいすは1脚しか置けないので、「一人しか入れないから」とあらかじめ言われていたにもかかわらず、2名で訪問して一人は立ちっぱなしだったことがあった。
ワンルームマンションくらいの広さはあるのだが、壁面はびっしり書棚で埋まり、部屋の真ん中にも背中合わせで書棚がある。書棚に入り切らない本が床に古紙回収業者の集積所のように山をなしている。これぞ究極の獺祭書屋である。
大量の書物のなかから必要な本を見つけ出すよりも、図書館に行った方が早いと、本人も自覚しているようだ。
実は、そういう当方の書斎も、油断をしているとたちまち獺祭書屋の態を成しかねない。