ひまわり博士のウンチク

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「いじめ」と「尖閣諸島」

2012年09月17日 | 日記・エッセイ・コラム
 とりあえず、二つのことについて書いておきます。
 一つは「いじめ」についてで、もう一つは「尖閣諸島」の問題についてです。全く別個に見えるこの二つの問題が実は、根源的に同一であるからです。
 それは、「ナショナリズム」です。ナショナリズムは差別意識によって構成されています。具体的にどういうことなのか、少し長くなりますがかいつまんで述べていきたいと思います。


 まず、「いじめ」は子どもたちだけが考え出し実行したものではありません。誰かから教わったか、誰かの行為から学んだかのいずれかです。その誰かとは当然大人たちであるということは、すぐに思い当たります。
 
 この世に生を受けた子どもは、その瞬間からもっとも身近な大人である親から様々なことを学びます。最初の言葉は間違いなく親から学びますし、ものの扱い方もそうです。物事の善し悪しも、基本的に親の判断をそのまま踏襲します。
 
 幼い子どもにとって親は至高の存在ですから、疑う余地などまったくありません。自分の親から、「あの子は汚いから」「あの子は貧しい家の子だから」「病気がうつるから」「頭が悪いから」、だから一緒に遊んではいけません、などと、これまで砂場で仲良く遊んでいた子どもたちから自分の子どもを引き離し、親の眼鏡にかなった子どもとだけグループをつくって、手も服も汚れない「上品」な遊びを子どもに勧める親もいます。ホントです。
 
 こういう話はテレビドラマなどでよく見かけることですが、多少の誇張はあるものの、実際に存在する出来事が大半です。ドラマなら「なんてひどい親たちだろう」と、問題を解決しようと孤軍奮闘する熱血先生を応援したりもします。ところが、自分が同じようなことをしていても、それには気付いていない場合がほとんどです。テレビに登場する理不尽なモンスターペアレントと自分自身を重ね合わせることは決してしません。
 
 また、親同士のうわさ話も、子どもたちの耳に入ります。誰々の親が犯罪を犯したとか、会社が倒産したとか、離婚したとか、不倫がばれたとか、そんな話をさも楽しげに昼間のリビングで高価な紅茶をすすりながら話し、そのまま家に持ち帰ってご主人に自慢げに話すのを、子どもはそれとなく聞いています。具体的な内容はわからなくても、子どもたちは「そうか、他人の不幸って面白いものなんだ」と、真っ白な心に「差別意識」が刷り込まれていくのです。
 
 子どもが親の影響を最も強く受けるのは、3歳から7歳の間といわれていて、その間に物事に対する判断の基幹部分が構成されます。これは、性格や人格の根本を成すものです。
 7歳以降になると義務教育が始まります。子どもの行動範囲や交友関係は大幅に拡大し、7歳までに芽生えた思考の基幹にそって人格が構成されていきます。そうして、ほぼ15歳くらいまでに、その人の人格の基礎が出来上がり、以後、それをもとに人生経験を積み、社会性を身につけて、大人になっていくのです。
 15歳までに出来上がったシナリオに、演出やアレンジを加えて以後の人生を送っていくということになります。何ともおそろしく残念な話ですが、どうもこれは事実のようです。
 このシナリオを、ライフ・スクリプト(人生脚本)と呼んでいる心理学者もいます。
 
 親から刷り込まれた差別意識が暴走するのは、15歳ころまでの社会常識がきわめて希薄な時期です。陰湿で過激な「いじめ」が、おもに中学校で行われているということからも頷けます。
 本質的に自分が悪いことをしているという意識がなく、もし「悪いこと」と思っていたとしてもそれは、先生など一部の大人からそう指摘されたからであって、自分自身で判断したことではありません。したがって、ある「いじめ」のやり方が注意されたとしても、他のやり方で「いじめ」が行われることになり、終りがありません。
 たとえば、教科書に落書きするのは悪いことだけど、帽子やランドセルを池に放り込むのならいいだろう、とまあ、ちょっと極端ですがそういうことです。
 大人はそういうことはしませんが、一人の人を取り囲んで糾弾したり、ネットで悪口を広めたりするのも同じことです。大人のいじめは狡猾になって、法に触れるぎりぎり手前のことをやるようになります。
 大人の世界で恒常的に存在する差別やいじめが、子どもたちを「いじめ」に走らせるのですから、子どもたちの間で表面化した「いじめ」だけに目を向けるということは枝葉末節であり、何ら根本的な解決にはなりません。
 
 「尖閣諸島」問題の根源はやはり、差別であり「いじめ」です。
 冒頭に「ナショナリズムは差別によって構成される」と書きました。改めてここにナショナリズムとは何かということを定義しておきます。ナショナリズムとは、自国あるいは自民族が最も優秀で秀でていて、他民族はすべて劣等民族であって排斥されて然るべきものであるという考え方です。
 典型的な例は、太平洋戦争以前のナチスドイツや日本(大日本帝国)がそうです。ナチスドイツでは、ドイツ人が世界で最も優れており、劣等民族であるユダヤ人は世界から抹殺すべきだという考えのもとに行われたのがホロコースト(大虐殺)です。大日本帝国憲法下の日本では、日本古来の宗教である神道をモデルに、天皇を頂点とした国家神道を作り、「八紘一宇(はっこういちう)」の名のもとに、中国や朝鮮を侵略していきました。八紘一宇とは、日本が中心になって世界中を一つの国として統治するという意味で、他国を見下した驕った考え方で、日本の侵略行為を正当化するために使われました。
 おわかりのように、ナショナリズムは他国や他民族を差別する考え方です。自分の国を愛することは決して間違ったことではありませんし、実際そうあるべきです。しかし、そのためによその国を差別し、侵略や略奪をおこなったり、のけ者にするべきではないことは誰にでもわかりそうなものです。ところが世の中には、東京都の石原慎太郎知事のように、中国人を「シナ人」と言って差別する人間は少なくありません。わが杉並区にもそんな弁護士がいました。「北朝鮮では子どもたちもスパイだから、小学校の催しに招待するべきではない」と、日本に住んでいる朝鮮の幼い子どもまでのけ者にしようとしたのです。そんな人間が弁護士の資格を持っていること自体驚きです。
 
 ナショナリストの根本にあるのは、「恐れ」です。自分に対する自信のなさです。他人を差別しいじめることで、自分自身がいじめられる立場になることを防いでいるのです。すなわち、ナショナリズムとは、他民族、他国家から自分たちが排斥されるのではないかという恐れから、相手から差別を受ける前に身をまもるという考え方です。
 もし、中国や韓国に対する差別意識がなければ「尖閣諸島問題」も「竹島問題」も起こらなかったでしょう。最初から何の問題にもならなかったはずです。もちろん同等のことが韓国や中国にも、ついでにアメリカにも言えるわけですが、こと今回の「尖閣諸島」に関しては日本に問題があります。
 
 それは、はじめから「尖閣諸島」は日本のものと決めてかかっていることで、議論の余地をなくしていることです。日本の国内にも「尖閣諸島を日本の領土と決めてかかることは疑わしい」とする学者や研究者がいます。ところがそういう意見は「中国の回し者」「共産主義の手先」といって、論議の俎上に乗せようともしません。
 おどろくのは「尖閣諸島」については、朝日新聞も共産党機関紙の赤旗までもがナショナリズムに同調し、マスコミのすべてがナショナリズムと化しています。
 
 「尖閣諸島」がどちらの領地であるかという以前に知っておくべき背景があります。
 中国には歴史的に他国から侵略され差別され続けてきた事実があります。特に日本からは「満州(東北地方)」侵略、三光政策、南京事件を始め、虐殺強奪による多大な被害を受けてきました。中国ではそういった歴史的事実を学校で教えていて、それを日本では「反日教育」と呼んでいます。
 しかし日本では、旧日本軍が中国で行ってきた残虐行為を日本の学校で教えることはありません。ですから、日本と中国が、歴史的に(特に明治以降)どのような関係であったのか、日本人の多くは知りません。
 今回の「反日」デモは、日中の近代史を学んだ若者たちが、「日本は中国人をどこまでいじめれば気が済むんだ」という怒りの爆発です。「尖閣諸島」は引き金に過ぎず、根源は中国に対する歴史的かつ構造的な差別です。
 
 「満州国」時代に、日本人が中国人に対してどんないじめを行ってきたか、以前、身近な人から実体験を聞いたことがあります。
 「かわいそうだと思わないでもなかったけれどネ、みんながやっていることだったから。それに、へたに庇ったりすると、非国民にされるしネ」
 どこか、現在の中学校のいじめと考え方が似ていませんか。
 外国の学校でも、日本のアメリカンスクールでも「いじめ」はあるそうです。しかし、人間としての尊厳を奪い取るような、陰湿な「いじめ」は日本独特のものだと、外国の生徒たちは口を揃えます。
 やはりそこには、明治時代から続く日本型ナショナリズム、国粋主義が現在も根強く残っていることが原因と言えるのではないかと思われます。
 
 「いじめ」をなくすのには、目の前で起きていることを解決すると同時に、まず、子どもたちと直接接する先生や親とその周辺の人々から、差別意識をなくすことです。子どもにだけ原因を求めるのは枝葉末節です。
 
 不幸な出来事に遭った人を見て、「ざまあ見ろ」と思った。
 不幸な出来事に遭った人を見て、「気の毒に」と思った。
   どちらも差別。
 ホームレスを見て、「汚らしい」と思った。
 ホームレスを見て、「ああはなりたくない」と思った。
 ホームレスを見て、「かわいそうに」と思った。
   どれも差別。
 
 不幸な出来事に遭った人も、ホームレスも、自分と同じ人間。けっして気の毒でもかわいそうでもありません。
 
 日本には「お気の毒に」という相手を慰める挨拶があります。ところがそれを言う人の根本には、「自分はそうではない、そうなるはずもない」という思いがあります。「お気の毒に」と言った瞬間に、自分が相手より上位に立っていることを感じるはずなのです。とっても日本的な差別意識だと思います。
 
 江戸時代の身分制度が士農工商であることは誰もがご存知のはず。生かさず殺さずとした農民に対し、上を見るな下を見て暮らせと、士農工商の下にエタ、という身分を作り差別の対象としました。かれらは、一般の庶民とともに暮らすことを許されず、与えられた地域にを作って住まわされました。それが被差別のルーツです。比差別の出身者は現在でも差別の対象とされることがあり、問題は残されています。
 
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