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【訃報】ギュンター・グラス

2015年04月14日 | ニュース

 

 ノーベル賞作家のギュンター・グラス氏が13日に亡くなった。87歳だった。死因は感染症とだけ発表されていて、詳細はわからない。
 カミさんに「ギュンター・グラスが死んだんだって」と言ったら、「小説書く人だっけ?」と言われた。僕の周りで彼を知らない人はいないはずだったが、肝心なところが漏れていたようだ。
 
 はじめてグラスの名前を知ったのは、1980年代に公開された映画『ブリキの太鼓』だった。2時間半にも及ぶ当時としてはとてつもなく長い映画で、しかも題材が重たい。とにかく激しく衝撃を受けた。
 特に印象に残っているシーンは、祖母が死んだ牛の頭を沼に沈め、翌朝引き上げるとその中に大量の鰻が巣食っているところだ。祖母は当たり前のようにそれを料理すると言っているが、周囲の人間は嘔吐する。食えたものではない。
 

 
 『ブリキの太鼓』(1959年)は「そのとおり、ぼくは気違い病院の住人である」(集英社版 高本研一訳)ではじまる、長大な小説である。「気違い病院の住人」であり、3歳の誕生日で成長を止めてしまったオスカル・マツェラートの半生を、自ら回想する形で描かれる。時代はナチ党政権およびその前後で、グラスが生まれたドイツのダンツィヒ市を舞台に、戦前・戦中・戦後の市民たちの遍歴などを客観的視点(すなわち、3歳で成長を止め社会の外に自分を置いた状態)で描いている。「気違い」「小人」など、現代社会ではいわゆる「不適切用語」満載の翻訳で、文庫になってどう直されているのだろうか、確認はしていない。
 グラスはこれが最初の長編小説で、それがベストセラーになり、『猫と鼠』(1961年)、『犬の年』(1963年)と続く、いわゆる「ダンツィヒ三部作」を発表する。
 1999年にノーベル文学賞受賞。同じくノーベル賞作家である大江健三郎氏とも親交が深かった。
 
 映画に感銘を受けて原作が読みたくなり、さっそく書店に向かったものの在庫がなく、中野の古書店で見つけて購入したことを記憶している。ところが当時は寝る時間どころかトイレに行く時間もないほど忙しく、読書にあてられる時間は日曜日に限られていて、それもなかなかまとまった時間にならない。せっかく購入した本は積ん読状態になってしまい、結局読み終えたのは夏休みを利用してグアム島に行った時だった。
 小さな活字でぎっしり組まれた本は、現在なら上下2巻に分けられ、1000ページくらいになるはずだ(集英社文庫では3冊だ)。
 

 
 時間がとれなかっただけで、内容が難解なわけでも読みにくいこともない。それを機会に、次々に作品を読破し、最新刊の『箱形カメラ』(2009年)まで、主要な作品はおおかた読んだ。
 この『箱形カメラ』は、自らがナチスの親衛隊であることをカミングアウトした『玉ねぎの皮をむきながら』の続編である。当時は大騒ぎになり、「ノーベル賞を返還すべきだ」とマスコミから強い批判を浴びた。
 
 グラスはドイツが再び軍事大国になることを懸念し、東西ドイツの統一に反対したり、1999年にはNATOによる旧ユーゴスラヴィアへの空爆を支持するなど、訳の分からないところもある。まるで身体の中に、相反する2人の人間が住んでいるようだ。大江健三郎氏は、生前のグラス氏にそのあたりの真意を聞いていなかったのだろうか。
 
 87歳と言えば、米寿の手前、年に不足なしと言うべきか、もう少し頑張れなかったのかと言うべきか、まあ、本人とすれば、するべきことはし終えたという感じであろう。
 
 冥福を祈る。 


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