寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

東京大空襲 火の粉の嵐を逃れて 第3回

2015年07月31日 22時35分48秒 | 日記・エッセイ・コラム

 避難場所として指定されたのは、関東大震
災後に鉄筋コンクリートに建て換えられた学
校や周辺に木造建築物のない劇場などでした。
政府は学校に類焼しないように周辺の木造建
築物を強制疎開と言って壊すことにしました。
壊した家の木材はガス燃料不足で困っていた
家庭に自由に持ち帰ってよいというので多く
の家で薪として持ち帰りました。

 昭和20年3月8日に、私の通学していた
日本橋区立A国民学校の周辺の民家が取り壊
されましたので、すぐ上の兄と2人でたくさ
んの木材をわが家へ運び込みました。母は当
分の間楽になるわねと言って喜んでくれたの
を今でも覚えています。

 私たちの家族は母、姉、すぐ上の兄そして
私の4人は警戒警報の吹鳴(サイレン)が鳴
ったら浜町公園近くにあるM劇場へ避難する
ことになっていました。M劇場ヘ行くのにどの
道を通れば最も早く行けるのか何回も練習
しました。

 その頃私たち国民学校の児童もほとんど毎
朝竹槍をもって銃剣術の訓練を受けていした。
学校では毎日避難訓練をしていました。学校
から家まで帰路に掛かる時間の測定などもし
ました。2年生の教室は2回にありましたの
で階段を降りるときの練習は階段で転ばない
ように繰り返し行いました。

 また学校の脇にある低学年用の小さなプール
で水泳訓練も受けました。高学年の児童や高等
科の生徒は学校の東側にある公園の南端にある
大きなプールで水泳の訓練をしていました。

 A国民学校はロに字型になっていて中央に朝礼
などが出来る舗装された校庭があり、東側は講堂
になっていました。生徒児童は西側にある昇降口
から校内に入るようになっていました。A国民学
校へは2年生の3月9日まで通学していました。


東京大空襲 火の粉の嵐を逃れて 第2回

2015年07月31日 07時50分34秒 | 日記・エッセイ・コラム

 アメリカ本国で、米軍は盛んに日本家屋を
研究していたのですね 。軍施設や兵器を生
産する工場を爆弾で破壊しても決定的な打撃
を与えることが出来ないと判断したようです。

 記録を見ると日本家屋の特徴である木造家屋
を焼失するのが最良だと言う決定をして、焼夷
弾の開発に力を入れたそうです。いろいろな焼
夷弾を開発したようですが、M69というナパ
ーム材を使った物が最適だと決めました。

 これは生産も極簡単で爆発信管を着弾10秒後
にしてか屋内に入ってから爆発するようにした
のです。これだとどこに着弾したかすぐには分
からず爆発するとガソリンのゲル状物質が火を
噴いて部屋中に飛散するので消火の方法がない
のです。

  私は国民学校2年生の時に、学校の裏の公園
で消防署や在郷軍人などの立ち会いでM69焼夷
弾の爆発実験を見たことがあります。そのときの
光景は今でも覚えています。爆発した瞬間火のつ
いた塊が50メートルほど先まで広がりながら飛
び散ったのです。大人達はそのすごさの呆然とし
てしまったようでした。

 当時の防火訓練は、町内の人達によるバケツリ
レーと火叩き棒の使い方を練習するという物でし
た。火叩き棒というのは今のモップの布部分を長
くしたような物で、布部分を水に浸けて水を吸わ
せて火のついたところを叩くという物です。

 焼夷弾の爆発実験を見てこのような消火道具で
はどうしようもないと思ったようでした。焼夷弾
1発だけでしたらなんとかなるでしょうが、一度
に多数の家屋に火災が起きてしまったらバケツリ
レーや火叩き棒では手のほどこしようがない状態
になってしまいます。

 当時隣組(今の町内会のようなもの)では団結が
しっかりしていて出征男子を出した家を周囲の家
で世話をしていましたし、何よりも子どもを大切
にし、しかも厳しくした全員で育てるという雰囲
気がありました。それで警戒警報が発令されると
婦女子と子どもは安全なところへ避難するように
決められていました。