寓居人の独言

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東京大空襲 火の粉の嵐を逃れて 第2回

2015年07月31日 07時50分34秒 | 日記・エッセイ・コラム

 アメリカ本国で、米軍は盛んに日本家屋を
研究していたのですね 。軍施設や兵器を生
産する工場を爆弾で破壊しても決定的な打撃
を与えることが出来ないと判断したようです。

 記録を見ると日本家屋の特徴である木造家屋
を焼失するのが最良だと言う決定をして、焼夷
弾の開発に力を入れたそうです。いろいろな焼
夷弾を開発したようですが、M69というナパ
ーム材を使った物が最適だと決めました。

 これは生産も極簡単で爆発信管を着弾10秒後
にしてか屋内に入ってから爆発するようにした
のです。これだとどこに着弾したかすぐには分
からず爆発するとガソリンのゲル状物質が火を
噴いて部屋中に飛散するので消火の方法がない
のです。

  私は国民学校2年生の時に、学校の裏の公園
で消防署や在郷軍人などの立ち会いでM69焼夷
弾の爆発実験を見たことがあります。そのときの
光景は今でも覚えています。爆発した瞬間火のつ
いた塊が50メートルほど先まで広がりながら飛
び散ったのです。大人達はそのすごさの呆然とし
てしまったようでした。

 当時の防火訓練は、町内の人達によるバケツリ
レーと火叩き棒の使い方を練習するという物でし
た。火叩き棒というのは今のモップの布部分を長
くしたような物で、布部分を水に浸けて水を吸わ
せて火のついたところを叩くという物です。

 焼夷弾の爆発実験を見てこのような消火道具で
はどうしようもないと思ったようでした。焼夷弾
1発だけでしたらなんとかなるでしょうが、一度
に多数の家屋に火災が起きてしまったらバケツリ
レーや火叩き棒では手のほどこしようがない状態
になってしまいます。

 当時隣組(今の町内会のようなもの)では団結が
しっかりしていて出征男子を出した家を周囲の家
で世話をしていましたし、何よりも子どもを大切
にし、しかも厳しくした全員で育てるという雰囲
気がありました。それで警戒警報が発令されると
婦女子と子どもは安全なところへ避難するように
決められていました。


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