monologue
夜明けに向けて
 

奈良  


そして1989年のある日、毎日新聞に「わたぼうし音楽祭」という障がい者の音楽コンテストが奈良で開催されるという記事が掲載された。それでわたしはその頃、MIYUKIがリードヴォーカルをとるシリーズとして作っていた曲を数曲選んでカセットに入れて応募してみた。すると、次の時代の合言葉となるダイバーシティ(多様性)をテーマにした作品「わかりあえる日まで」が一次審査を通過して本番のコンテストで演奏される候補作品10曲のうちの一曲に選ばれたのだった。
奈良で開催された「第15回わたぼうし音楽祭」で「わかりあえる日まで」は優勝して作詞賞作曲賞を受けたのだった。
fumio

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それでわたしは退院後、ヤマハのミュージックコンピューターにシンセサイザー音源やドラムマシンなど使用して歌作りを始めた。そしてできあがったのが軽々しく愛を口にしないで だった。その歌の見本とキーをMIYUKIに合わせたカラオケのカセットを作ってMIYUKIに送った。それでMIYUKIは次の週のイベントの仕事に初めてオリジナルの歌を歌ったのだ。ずいぶん受けたと喜んでいた。それがアルバム「水面に書いた物語」の始まりだった。
fumio

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miyuki  


 1988年9月14日午後9時過ぎ、窓からJRを臨む渋谷の芝居稽古場でわたしは原子力反対芝居の稽古で 胴上げからの落下の稽古中、一瞬の暗闇の中で額が床にぶつかってエビ反りに首の骨を折った。
そして、北品川第三病院のICUで緊急手術を受けて回復期に劇団のスター、Miyukiが見舞いにやってきた。患部に手かざしをさせてほしいという。毎日、交代で手かざしにやって来た。
ある程度回復するとわたしは11月にリハビリテーションのために転院した。武蔵村山病院のリハビリ病棟へ送られたのだ。転院した武蔵村山病院のリハビリ病棟にある日、劇団のヒロイン、Miyukiが見舞いにやってきた。わたしがアメリカでロックミュージシャンとして活動してレコードやカセットテープを製作していた、と話すとMiyukiは「わたしにもオリジナルソングを作ってください」と言い出した。イベントや歌謡ショーなどの司会などの仕事の時、歌を歌う機会があるので自分にもオリジナルの歌を作ってほしい、というのだった。

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