私の言葉ではありません。
「やるか?やるか。」
仕事でも、趣味でも、なんでも
どうしても二者択一になってしまいます。
「やるか、やらないか」
普通はそうなります。
失敗したり、停滞したとき、
どうするのかと。
でも、ある方が言っていたのです。
「やるか?やるか」
要するに、二者択一ではなく、一択。
この思考方法はすごいですよ。
その方も言っていましたが、
やらない理由はいくらでも考えられます。
でも、
一択なら。。。。
やるしかないなら。。。
どうやるか?に思考の方向性が変化します。
やるというポジティブな限定のなかで、
どうするのか?
何を変えるのか?
どうしたらよいのか?
すべては「やる」前提で思考が回りだすのです。
私も離婚を経験して
苦しみから抜け出したとき、
自分の人生全体を考えたとき、
どうせ死ぬほどの苦しみを越えてきて
世の中の常識とは離れたのだから、
自由に、全力で人生をやりきろうと思えた瞬間がありました。
周囲のことや、慣習や、常識などどうでもよくて、
自分が思ったように生きたいと思いました。
その瞬間に、結婚ということもどうでもいいし、
仕事すらどうでもよく、
周囲などもっとどうでもよく、
自分軸を確立していくことになりました。
どうせ人生は100年くらいです。
今の自分にはあと半分あるかどうか。
だったらやりたい放題、好きにすればいいし、
お金や健康が力尽きて、途中で死んでも
やらずに生きるより、やりきって生きたい。
やれるだけやろう、やりたいことをやろう。
そんなことに気づかずに、残業して、冷え切った家族に縛らて
常識に囚われて、ありきたりの周囲と同じように、
ただ安心感のみほしくて、
人生を生きている人たちとは
違う人生を歩んでみよう。
望んではいなかったし、未来もわからないけど、
こうなった以上は、やる!一択。
やるか?やるか。の一択。
そう思って、今があります。
あなたに強制はしません。
ただそんな考え方もあるのだとお伝えしました。
「やるか?やるか。」
仕事でも、趣味でも、なんでも
どうしても二者択一になってしまいます。
「やるか、やらないか」
普通はそうなります。
失敗したり、停滞したとき、
どうするのかと。
でも、ある方が言っていたのです。
「やるか?やるか」
要するに、二者択一ではなく、一択。
この思考方法はすごいですよ。
その方も言っていましたが、
やらない理由はいくらでも考えられます。
でも、
一択なら。。。。
やるしかないなら。。。
どうやるか?に思考の方向性が変化します。
やるというポジティブな限定のなかで、
どうするのか?
何を変えるのか?
どうしたらよいのか?
すべては「やる」前提で思考が回りだすのです。
私も離婚を経験して
苦しみから抜け出したとき、
自分の人生全体を考えたとき、
どうせ死ぬほどの苦しみを越えてきて
世の中の常識とは離れたのだから、
自由に、全力で人生をやりきろうと思えた瞬間がありました。
周囲のことや、慣習や、常識などどうでもよくて、
自分が思ったように生きたいと思いました。
その瞬間に、結婚ということもどうでもいいし、
仕事すらどうでもよく、
周囲などもっとどうでもよく、
自分軸を確立していくことになりました。
どうせ人生は100年くらいです。
今の自分にはあと半分あるかどうか。
だったらやりたい放題、好きにすればいいし、
お金や健康が力尽きて、途中で死んでも
やらずに生きるより、やりきって生きたい。
やれるだけやろう、やりたいことをやろう。
そんなことに気づかずに、残業して、冷え切った家族に縛らて
常識に囚われて、ありきたりの周囲と同じように、
ただ安心感のみほしくて、
人生を生きている人たちとは
違う人生を歩んでみよう。
望んではいなかったし、未来もわからないけど、
こうなった以上は、やる!一択。
やるか?やるか。の一択。
そう思って、今があります。
あなたに強制はしません。
ただそんな考え方もあるのだとお伝えしました。
仕事の内容についてですが、今までは報酬が見合っているなら引き受けようと判断基準が自分の中でありました。
やるか?やるか。
自分のスキルアップや新しい事への挑戦と言う意味で、損得関係無くやってみようかなと。
そう思わせてくれる著者さんのお話しでした。
まだ実行していないのにも関わらず、自分の中でそう思う事が出来たと言うだけでも僅かながらに変化はしているのかなと思う出来事でした。
今の私にはここが本当に支えになっています。
同じ所を何度も読み返し、必死に生きています。
つまり離婚から二年経ちました。
離婚時、子供とは面会交流で合意したものの、忘れられているのではないかという恐怖心と、元配偶者またはその関係者に会わなければいけないことが忌避感となり、子供に会いたい気持ちが大きくなる半面、今でも会うことができない自分の弱さを痛感する日々です。
いろいろな事情で会えない方もおられる中で、贅沢な悩みなのかもしれませんが、私にはこれが精神の安定の方法であって生きていくために心に掛けた鍵です。でもいつか解錠しなければならないのは理解していますが、難しいものです。
一時期は精神的錯乱状態に陥り、自死も考えた地獄の日々でしたが、時薬というのはどうやら存在するようです。身をもってそれを理解いたしました。急には何も変わらない、物事も心も少しづつしか動かないということも。
幸いに仕事は私を裏切ることはなかったため、今はビッグプロジェクトに携わることが生き甲斐になっております。
いま、改めて記事を一つ一つ読み返してみますと、染み渡る一言一言にとても心が穏やかになります。なんとか自分軸を取り戻して、私は生きていくことにしました。どれほど大切な人間であっても自分以外は他人であり、制御できないことをしっかりと心に刻みました。それはそっと置いておく。離れず近づかず、この距離感も身に付きました。
管理人様には感謝しかございません。次に拝見するときは子供に会えていることを報告できればいいなと思っております。
またしばらくブログからは離れて生活してみます。
管理人様、なにとぞご自愛くださいませ。では失礼します。
本当なら、こんな苦しみを感じずに、幸せで楽しい人生を歩みたかった。
離婚から出発して、結局行き着いたのは、本当の自分と向き合うことでした。
正直、自分に飽きてしまっています。
最近は、何をしても、空回り。
小さなミスばかりおかしてしまう。
人生にルールはなく、一方で宇宙は人間を全体性に導いているのならば、今私が、自殺しても、それは、なるべくしてなる避けられない運命のようなことなのかな?
ただただ、疲弊してしまいました。
前のようには、生きられない。
それだけは、身に染みて実感しています。
こんな自分なり、ではあるけれど、あの時は、あれが精一杯だった。
今なら、と思うことは腐るほどあるけれど。
せめてもの救いは、今あの人には、新しいパートナーが居て、娘も生まれたということ。
幸せだと思います。
私と一緒にいたら、そんな幸せは、掴むことは出来なかったと思う。
はぁ、、、また自己嫌悪。
そんな自分に飽きるばかり。
死にたいというより、こんな自分を抱えて生きているほうがツライだけ。
いつまで持つかなぁ。。。