人生のいろいろな問題に突き当たり、
苦しみや悲しみに沈んでいるときには、
その意味や理由を考えてしまう。
多くの人がそう。
そもそも人生の意味とは、価値とは、
この苦しみ、悲しみに意味があるとしたらとか。
人間とは、やはり何事にも意味や理由がほしいというのが、あるのだと思います。
それに、これだけの苦しみに意味がないとしたら、
とてもではないが、やりきれない、耐えられない、どうしようもなさすぎる。
そんなふうにすら思ってしまうかもしれません。
多くの偉人や哲学者、宗教学者が長い年月をかけて思想し、経験し
その一部もまた本で読むことができるでしょう。
それが助けになることもあるはずです。
実際に私自身も当時救われた言葉は手帳にいつも入れてあります。
でも、それぞれがバラバラなことを言うし、一致した正解など見たことがありません。
そんなものがあるとすれば、すでに多くの人が救われているし、
宗教の差なんてものもないはず。
あくまで、自分が納得できれば良いだけかもしれません。
だからこそ、これだけ多くの思想や、宗教があって、
対立したり共存しているのではないかとすら思ってしまいます。
ただ、この意味や理由を探し出すと、これまたループに入ってしまいませんんか。
答えがあるのかないのかもわからない、どうにもならないループに。
胸の奥が苦しくて、締め付けられるような痛みを感じたり、
なんだか身体のあちこちが痛かったり、眠れなくなったり。
そんなときは、一度、保留してみましょう。
わからないことは、わからないままにしておく。
もしこの苦しみ、悲しみに意味があるのだとしたら、
いづれわかるかもしれません。
そして意味など存在しなかったとしたら、
それはそれで今考えても永久に見つからない。
急いで答えを出さなくてもいい、白黒つけなくてもいい、
多くの偉人たちが考えてもわからないものは、
簡単に自分にわかるはずもない。
その程度にしておく、保留しておく。
10年以上たっても、私にも意味などわかりません。
何が正解かも。
ただ、10年以上経て、今の自分の立ち位置が、今の自分の在り方が、
過去に意味を与えたのだとも感じます。
あえて意味があったとも言えるし、偶然かもしれないし、
意味は、見つけるものでも、探すものでも、もちろん落ちているものでもなくて、
自分自身で、過去の出来事に、与えるものかもしれませんね。
自分自身のために。
苦しみや悲しみに沈んでいるときには、
その意味や理由を考えてしまう。
多くの人がそう。
そもそも人生の意味とは、価値とは、
この苦しみ、悲しみに意味があるとしたらとか。
人間とは、やはり何事にも意味や理由がほしいというのが、あるのだと思います。
それに、これだけの苦しみに意味がないとしたら、
とてもではないが、やりきれない、耐えられない、どうしようもなさすぎる。
そんなふうにすら思ってしまうかもしれません。
多くの偉人や哲学者、宗教学者が長い年月をかけて思想し、経験し
その一部もまた本で読むことができるでしょう。
それが助けになることもあるはずです。
実際に私自身も当時救われた言葉は手帳にいつも入れてあります。
でも、それぞれがバラバラなことを言うし、一致した正解など見たことがありません。
そんなものがあるとすれば、すでに多くの人が救われているし、
宗教の差なんてものもないはず。
あくまで、自分が納得できれば良いだけかもしれません。
だからこそ、これだけ多くの思想や、宗教があって、
対立したり共存しているのではないかとすら思ってしまいます。
ただ、この意味や理由を探し出すと、これまたループに入ってしまいませんんか。
答えがあるのかないのかもわからない、どうにもならないループに。
胸の奥が苦しくて、締め付けられるような痛みを感じたり、
なんだか身体のあちこちが痛かったり、眠れなくなったり。
そんなときは、一度、保留してみましょう。
わからないことは、わからないままにしておく。
もしこの苦しみ、悲しみに意味があるのだとしたら、
いづれわかるかもしれません。
そして意味など存在しなかったとしたら、
それはそれで今考えても永久に見つからない。
急いで答えを出さなくてもいい、白黒つけなくてもいい、
多くの偉人たちが考えてもわからないものは、
簡単に自分にわかるはずもない。
その程度にしておく、保留しておく。
10年以上たっても、私にも意味などわかりません。
何が正解かも。
ただ、10年以上経て、今の自分の立ち位置が、今の自分の在り方が、
過去に意味を与えたのだとも感じます。
あえて意味があったとも言えるし、偶然かもしれないし、
意味は、見つけるものでも、探すものでも、もちろん落ちているものでもなくて、
自分自身で、過去の出来事に、与えるものかもしれませんね。
自分自身のために。
心は一度殺された。10年間私はただ純粋にひたすら彼を想ってお互いが毎日楽しく過ごせる様に私なりの気遣いもしてきたつもりだ。彼の趣味も友達付き合いも、気持ちよく楽しんで貰いたくてあまり文句も言ってこなかった。毎日仕事を頑張っていた事を知ってるから。ただ2週間本当に毎日1日も欠かさず夜遊びに行った時だけはさすがに注意した事はある。私の至らない所もたくさんあったとは思う。だけど、彼を一筋に想って来た誠実な気持ちだけは100%自信を持って言える。
夫に対して生涯自分だけを見つめて欲しいと願うことはそんなに贅沢な事だったのか?なんでパートナーの気持ちを考えず別の相手と浮気出来るんだろう。
過去に「俺のこの友達かっこよくない?」って、数人の写真見せてきた事があったから、どっちかっていうとこの人よりはこっちの人の方がかっこいいねって言ったら「いやー!なんで俺にそーゆーこと言うの?ひどくない?」って言ってきた事があって、自分で聞いてきたくせにどーした?と思った事があったけど、そんな事で嫉妬するような人だったら、逆の立場で相手の嫌がることはしないとか考えられないのかな。
意味か… いつかこの離婚という出来事に意味を与えられる日が来ると良いな。
だけど、こんなにバカにされて、心を粉々にされて、人格を否定されて、人生のどん底に突き落とされても、彼に対して心からの憎しみを持つことは出来ない。
悔しい気持ちもたくさんある。腹がたって仕方がないこともある。だけど、感謝の気持ちもたくさんある。
今生きていられるのはポン太(犬)の存在のおかげ。そのポン太に会えたのはあの人のおかげ。出来ればずっと一緒にポン太を育てたかった。ポン太の一つ一つの可愛い仕草をあの人と共有している時間が大好きだったから。今も毎日感じるポン太の仕草をあの人と共有出来ない事が辛い。ポン太が窓の外をずっと眺めていると、あの人の事を想っているのかな?と思うと辛い。
動物だけは絶対に裏切らない。それが今の私の心の支え。
また一つ彼の居ない新たな季節を越えて、前に進んで行く。秋も、冬も、春も越えられた。一つ一つゆっくりと乗り越える。色んな事を乗り越えて行った先には新しい自分がいるはずだよね。また誰かを心から愛して、信用出来る様になりたい。