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岡潔『春宵十話』(光文社文庫)

2018-02-16 | 書評「お」の国内著者
岡潔『春宵十話』(光文社文庫)

数学は論理的な学問である、と私たちは感じている。然るに、著者は、大切なのは情緒であると言う。人の中心は情緒だから、それを健全に育てなければ数学もわからないのだ、と。さらに、情操を深めるために、人の成熟は遅ければ遅いほどよい、とも。幼児からの受験勉強、学級崩壊など昨今の教育問題にも本質的に応える普遍性。大数学者の人間論、待望の復刊。(「BOOK」データベースより)

◎勘を鍛える

岡潔は数学者ですが、哲学者でもあり、教育学者でもあり、仏教学者でもあるといえます。岡潔はじつにユニークなたとえで、自身の近辺を説明しています。数学者イコール堅物あるいは暗い人のイメージは、みじんもありません。

――数学と物理は似ていると思っている人があるが、とんでもない話だ。職業にたとえれば、数学に最も近いのは百姓だといえる。種をまいて育てるのが仕事で、そのオリジナリティは「ないもの」から「あるもの」を作ることにある。数学者は種子を選べば、あとは大きくなるのを見ているだけのことで、大きくなる力はむしろ種子の方にある。(本文P53より)

私はすでに、小林秀雄・岡潔・対談集『人間の建設』(新潮文庫)を「知・教養・古典・ノンフィクション125+α」として推薦作にしています。1著者1著作の紹介を原則としていますが、岡潔単独の著作ではありませんので、岡潔『春宵十話』(光文社文庫)を新たに追加することにしました。まずは小林秀雄との対談での、岡潔の発言をおさえておきたいと思います。

――勘は知力ですからね。それが働かないと、一切がはじまらぬ。それを表現なさるために苦労されるのでしょう。勘でさぐりあてたものを主観のなかで書いていくうちに、内容が流れる。それだけが文章であるはずなんです。(『人間の建設』新潮文庫P24,岡潔の発言)

「勘」は暗黙知です。私たちの「知」には2種類あって、暗黙知は私たちの「知」の大部分をしめています。言葉や文字で表現されていない、または表現しにくい知を「暗黙知」といいます。いっぽう言葉や文字で表現された知を、「形式知」といいます。マニュアルやテキストがその代表例です。

「意識」を説明するときに、よく氷山の絵がもちいられます。水面下にある大きな部分を「潜在意識」、水面上に顔を出している小さな部分を「顕在意識」といいます。「形式知」は「顕在意識」と符合します。「潜在意識」は「暗黙知」と符合します。

「暗黙知」の代表例は、スキル、ノウハウ、勘、人間力などです。岡潔が着目しているのは「暗黙知」で、そこを鍛えなさいといっています。暗黙知は鍛える代表的な手法は、徒弟制度です。見よう見まねで、親方の仕事をマネルのが出発点です。また良書を読んだり、優れた人から学ぶことで、自らの人間力を高めることができます。岡潔が優れているのは、散歩や入浴などさりげない日常のなかに、無心の自分をおくことだといっている点です。

――だからもうやり方がなくなったからといってやめてはいけないので、意識の下層にかくれたものが徐々に成熟して表層にあらわれるのを待たなければならない。そして表層に出てきた時はもう自然に問題は解決している。(本文P36より)

『春宵十話』には、美しい日本の自然が描かれています。そんななかに身をおいて、無心になったときに、ひょっこりと顔をのぞかせるものをつかみなさい。岡潔の境地になるまで、もっともっと感性を磨かなければなりません。

◎「真善美」が大切

晩年の岡潔は、「真善美(しんぜんび)」の大切さを主張しています。若いころに読んでいた花田清輝の著作の多くは、真善美社から刊行されていました。そうした関係で「真善美」の意味については、以前から興味をもっていました。「真善美」は、正確には「真偽、善悪、美醜」と表記しなければなりません。

岡潔は「真には知、善には意、美には情が対応し、それらを妙が統括し智が対応する」と述べています。さらに「日本民族は人類の中でも、とりわけ情の民族であるため、根本は情であるべき」とも語っています。

――情操が深まれば境地が進む。これが東洋的文化で、漱石でも西田幾太郎先生でも老年に至るほど境地がさえていた。だから漱石なら『明暗』が一番よくできているが、読んでおもしろいのは、『それから』あたりで、『明暗』になるとおもしろさを通り越している。(本文P41より)

――孔子の『論語』に。最初が学をつとめ、次に学を好み、最後に学を楽しむという境地の進み方を述べたことばがあるが、この「楽しむ」というのが学問の中心に住むことにほかならない。(本文P46より)

岡潔は「境地」という単語を好んでもちいます。2つの引用文にもそれが認められますが、これが「真善美」をきわめた世界ともいえます。

◎無心でやることが大切

岡潔『春宵十話』(光文社文庫)の引用のなかで、ひんぱんに登場するのはつぎの文章です。岡潔は理屈なんぞいらない。無心でやることが大切だと書いています。数学での発見の多くは、意識を超越した無意識の境地にあるとも書いています。

――よく人から数学をやって何になるのかと聞かれるが、私は春の野に咲くスミレはただスミレらしく咲いているだけでいいと思っている。咲くことがどんなによいことであろうとなかろうと、それはスミレのあずかり知らないことだ。(本文P33より)

前記のように岡潔は、教育者でもあります。

――頭で学問をするものだという一般の概念に対して、私は本当は情緒が中心になっているといいたい。(本文P15より)

岡潔は現在の教育にたいして、いくつもの苦言を呈しています。私は教える場から育てる場への、転換を主張しています。企業内には研修部がありますが、彼らは教えることしかしていません。一律に教える研修には、結果責任は生じません。育てるためには、個別指導が必要になります。それゆえ、結果責任が発生するわけです。

岡潔は長所に着目しなさいともいっています。それを大きくクローズアップしてあげること。単に競争意識をあおるのは害あって、益のないものだと書いてもいます。

――フランスのジイドは「無償の行為」ということをいっている。これはこのくにの善行と似ているようだが、大分違う。このくにの善行は「少しも打算、分別の入らない行為」のことであって、無償かどうかをも分別しないのである。(本文P74より)

日本人の国民性である「善行」にフォーカスをあて、自然をめでる数学者・岡潔は、実に幅広い考えをもっています。最後に人間・岡潔について、ふれた文章を紹介させていただきます。

――客が持参したカマスの干物を食卓に出して半分に切って客に与えたのは、「持って来てもらったというその真心でもう腹はいっぱいになった」。/歩いていて思いつくと突然しゃがむのは、「疲れたからだ。しゃがんだほうがよい」。/帰宅すると財布を最初に畳に投げ出すのは、「金は、〈物質〉だ。汚い」。/医者嫌いなのは、「自分の体は自分が〈主催〉している。医者にかかる必要なし」。/昭和五十三年(一九七八年)三月一日、心不全で死去。その前日、「明日の朝死んでいるよ」と予告していた。数学的洞察力は死をも予知していたようである。享年、七十六歳。(山崎光夫『名人伝・長く強く生きる』講談社α文庫P266より)
(山本藤光:2015.01.28初出、2018.02.16改稿)

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