村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』(全3巻、新潮文庫)

僕とクミコの家から猫が消え、世界は闇にのみ込まれてゆく。―長い年代記の始まり。(「BOOK」データベースより)
◎井戸から異次元の世界へ
1著者1冊の紹介を原則にしていますが、どうしても紹介したい2冊目はあります。世界的な人気作家の村上春樹の場合は、この作品を外すことができません。そんなわけで、「+α」として発信することにしました。
『ねじまき鳥クロニクル』(全3巻、新潮文庫)は、『1Q84』(全6冊、新潮文庫)とともに村上春樹の傑作だと思っています。本書は3つのジクソーパズルを合わせると、一つの風景が浮かび上がる仕組みになっています。
初出の単行本のときは、第3部(鳥刺し男編)が1年4ヶ月遅れで配本されました。あの時の待ち遠しさは、今も強烈に覚えています。
村上春樹とは群像新人文学賞を受賞した、『風の歌を聴け』(講談社文庫、初出1979年)が最初の出会いでした。その後『1973年のピンボール』(講談社文庫、初出1980年)、『羊をめぐる冒険』(上下巻、講談社文庫、初出1982年)あたりまでは、アメリカ文学とジャズの香りがする新鋭作家という印象でした。
村上春樹の作品に大きな変化が現れたのは、約1ヶ月半のアメリカ旅行を経験した1984年以降でしょう。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(上下巻、新潮文庫、初出1985年)からは実験的な要素が加わり、小説の構成にも厚みが生まれてきました。ただし「僕」という主人公のスタイルは、かたくなに変えていません。
『ねじまき鳥クロニクル』は、ひとことで語ることは難しい作品です。主人公「僕」こと岡田亨は、勤めていた法律事務所を辞めます。妻クミコが失踪し、猫もそれに呼応するようにいなくなります。クミコには、綿谷ノボルという政治家の兄がいます。「僕」は妻の失踪に、ノボルが関与していると考えます。
村上春樹の小説には、「井戸」がひんぱんに登場します。そのことは、すでに誰かが指摘しています。『ねじまき鳥クロニクル』にも「井戸」は、重要な位置づけで出てきます。
――気がついたとき、僕はやはり暗黒の底に座っていた。いつものように壁に背中をつけて。僕は井戸の底に戻ってきたのだ。(本文より)
井戸について村上春樹は、河合隼雄との対談のなかで、次のように説明しています。
――僕が小説で書こうとしているのは、ほんとうの底まで行って壁を抜けて……。(河合隼雄『こころの声を聴く』新潮文庫P280)
これまでは比喩として使われていた「井戸」が、異次元の世界へとタイムスリップするための基地として扱われます。主人公は井戸底の闇からホテルへ潜入し、クミコを奪還しようと試みるわけです。
◎書評家たちの指摘
本書では多くの人物が、主人公の前に現れて過去を語ります。間宮中尉という老人は、ノモンハンでの戦友の悲惨な話や、自ら深い井戸に投げこまれたときの、孤独と絶望の話をします。不審な電話の女。加納マルタ・クレタ姉妹。赤坂ナツメグ・シナモン親子。何通もの手紙を書く、登校拒否の笠原メイ。綿谷ノボルの秘書である小男。
これらの登場人物以外に、この小説のタイトルでもあるネジを巻くような声で鳴く、「ねじまき鳥」も重要なアクセントとなっています。ただし、笠原メイの手紙同様、その鳴き声は小説の登場人物には届きません。
本書は村上春樹が最も時間をかけて仕上げた作品です。失ったものを奪還する冒険譚。それゆえ展開はスピーディで、めまぐるしく場面転換がなされます。単行本では数年かかって完読しましたが、文庫での再読はあっという間でした。
今回はプロの批評家の注釈をたっぷりと読んでからの再読でしたので、彼らの書評も存分に参考にすることができました。参考にさせていただいた、いくつかの貴重な指摘を紹介させていただきます。
――『ねじまき鳥クロニクル』にはそれまでの村上作品と大きく違う点がある。それまでほとんど触れられることのなかった〈家族〉が描かれていることであり、クールな対応が特徴だった村上作品の主人公がはじめて〈闘う姿勢〉を見せていることだ。(洋泉社MOOK『村上春樹全小説ガイドブック』P60)
――『ねじまき鳥クロニクル』には、新しい試みもある。それは〈悪意〉の存在だ。しかも人間の心や身体を損なう具体的なものとしての悪意。戦争や綿谷ノボルを通じて、村上春樹はこれまで苦手としてきた悪意の表現に果敢に挑戦しているのだ。(豊﨑由美『そんなに読んでどうするの?』アスベクトP57)
――村上春樹はこれまで一貫して現代人の精神の断絶を描いてきた。クールな洒落たセリフで接触しながら、人間同士は世界の果てのような孤独にめいめいが住んでいて、決して人間関係に安らぐことがない。(中略)村上はその孤独の宿命と、また通話の可能性を探ってきたといっていい。(清水良典『最後の文芸時評』四谷ラウンドP201)
村上作品のなかにふんだんにちりばめられた小道具と比喩と逸話。私はそうした脇道に、誘われるのを好みます。
(山本藤光:1996.10.06初稿、2018.03.21改稿)

僕とクミコの家から猫が消え、世界は闇にのみ込まれてゆく。―長い年代記の始まり。(「BOOK」データベースより)
◎井戸から異次元の世界へ
1著者1冊の紹介を原則にしていますが、どうしても紹介したい2冊目はあります。世界的な人気作家の村上春樹の場合は、この作品を外すことができません。そんなわけで、「+α」として発信することにしました。
『ねじまき鳥クロニクル』(全3巻、新潮文庫)は、『1Q84』(全6冊、新潮文庫)とともに村上春樹の傑作だと思っています。本書は3つのジクソーパズルを合わせると、一つの風景が浮かび上がる仕組みになっています。
初出の単行本のときは、第3部(鳥刺し男編)が1年4ヶ月遅れで配本されました。あの時の待ち遠しさは、今も強烈に覚えています。
村上春樹とは群像新人文学賞を受賞した、『風の歌を聴け』(講談社文庫、初出1979年)が最初の出会いでした。その後『1973年のピンボール』(講談社文庫、初出1980年)、『羊をめぐる冒険』(上下巻、講談社文庫、初出1982年)あたりまでは、アメリカ文学とジャズの香りがする新鋭作家という印象でした。
村上春樹の作品に大きな変化が現れたのは、約1ヶ月半のアメリカ旅行を経験した1984年以降でしょう。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(上下巻、新潮文庫、初出1985年)からは実験的な要素が加わり、小説の構成にも厚みが生まれてきました。ただし「僕」という主人公のスタイルは、かたくなに変えていません。
『ねじまき鳥クロニクル』は、ひとことで語ることは難しい作品です。主人公「僕」こと岡田亨は、勤めていた法律事務所を辞めます。妻クミコが失踪し、猫もそれに呼応するようにいなくなります。クミコには、綿谷ノボルという政治家の兄がいます。「僕」は妻の失踪に、ノボルが関与していると考えます。
村上春樹の小説には、「井戸」がひんぱんに登場します。そのことは、すでに誰かが指摘しています。『ねじまき鳥クロニクル』にも「井戸」は、重要な位置づけで出てきます。
――気がついたとき、僕はやはり暗黒の底に座っていた。いつものように壁に背中をつけて。僕は井戸の底に戻ってきたのだ。(本文より)
井戸について村上春樹は、河合隼雄との対談のなかで、次のように説明しています。
――僕が小説で書こうとしているのは、ほんとうの底まで行って壁を抜けて……。(河合隼雄『こころの声を聴く』新潮文庫P280)
これまでは比喩として使われていた「井戸」が、異次元の世界へとタイムスリップするための基地として扱われます。主人公は井戸底の闇からホテルへ潜入し、クミコを奪還しようと試みるわけです。
◎書評家たちの指摘
本書では多くの人物が、主人公の前に現れて過去を語ります。間宮中尉という老人は、ノモンハンでの戦友の悲惨な話や、自ら深い井戸に投げこまれたときの、孤独と絶望の話をします。不審な電話の女。加納マルタ・クレタ姉妹。赤坂ナツメグ・シナモン親子。何通もの手紙を書く、登校拒否の笠原メイ。綿谷ノボルの秘書である小男。
これらの登場人物以外に、この小説のタイトルでもあるネジを巻くような声で鳴く、「ねじまき鳥」も重要なアクセントとなっています。ただし、笠原メイの手紙同様、その鳴き声は小説の登場人物には届きません。
本書は村上春樹が最も時間をかけて仕上げた作品です。失ったものを奪還する冒険譚。それゆえ展開はスピーディで、めまぐるしく場面転換がなされます。単行本では数年かかって完読しましたが、文庫での再読はあっという間でした。
今回はプロの批評家の注釈をたっぷりと読んでからの再読でしたので、彼らの書評も存分に参考にすることができました。参考にさせていただいた、いくつかの貴重な指摘を紹介させていただきます。
――『ねじまき鳥クロニクル』にはそれまでの村上作品と大きく違う点がある。それまでほとんど触れられることのなかった〈家族〉が描かれていることであり、クールな対応が特徴だった村上作品の主人公がはじめて〈闘う姿勢〉を見せていることだ。(洋泉社MOOK『村上春樹全小説ガイドブック』P60)
――『ねじまき鳥クロニクル』には、新しい試みもある。それは〈悪意〉の存在だ。しかも人間の心や身体を損なう具体的なものとしての悪意。戦争や綿谷ノボルを通じて、村上春樹はこれまで苦手としてきた悪意の表現に果敢に挑戦しているのだ。(豊﨑由美『そんなに読んでどうするの?』アスベクトP57)
――村上春樹はこれまで一貫して現代人の精神の断絶を描いてきた。クールな洒落たセリフで接触しながら、人間同士は世界の果てのような孤独にめいめいが住んでいて、決して人間関係に安らぐことがない。(中略)村上はその孤独の宿命と、また通話の可能性を探ってきたといっていい。(清水良典『最後の文芸時評』四谷ラウンドP201)
村上作品のなかにふんだんにちりばめられた小道具と比喩と逸話。私はそうした脇道に、誘われるのを好みます。
(山本藤光:1996.10.06初稿、2018.03.21改稿)
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