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佐藤春夫『田園の憂鬱』(新潮文庫)

2018-03-01 | 書評「さ」の国内著者
佐藤春夫『田園の憂鬱』(新潮文庫)

都会の喧噪から逃れ、草深い武蔵野に移り住んだ青年を絶間なく襲う幻覚、予感、焦躁、模索……青春と芸術の危機を語った不朽の名作。(内容案内)

◎佐藤春夫と谷崎潤一郎の小田原事件

佐藤春夫に関する資料を蔵書から、引き出しました。何と24冊。あまりの多さに戸惑いました。そのなかから、中上健次『風景の向こうへ』(講談社文芸文庫)、瀬戸内寂聴『奇縁まんだら』(日本経済新聞社、「山本藤光の文庫で読む500+α」推薦作)などを読みながら、佐藤春夫は人徳のあった作家だったことを痛感しました。

佐藤春夫といえば「小田原事件」があまりにも有名です。ちょっとだけ紹介させていただきます。瀬戸内寂聴も『奇縁まんだら』で触れています。

――(補:佐藤春夫と)谷崎潤一郎夫人千代子との間に恋愛がおこり、谷崎も一時それをゆるすつもりだったが、翻意したために彼は谷崎と絶交した。処女詩集『殉情詩集』(大正10年)は、彼女と別れた傷心の歌声にほかならない。(『新潮日本文学小辞典』より)

「小田原事件」とは、谷崎潤一郎が当時小田原に住んでいたことから、そういわれるようになりました。実は別れた千代子については、佐藤春夫はほかにも詩を書いています。こちらの方が有名です。。

――さんま、さんま/そが上に青き蜜柑の酸をしたたらせて/さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。/そのならひをあやしみなつかしみて女は/いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。/あはれ、人に捨てられんとする人妻と、妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、/愛うすき父を持ちし女の児は/小さき箸をあやつりなやみつつ/父ならぬ男にさんまの腸をくれむと言ふにあらずや。(「秋刀魚の歌」の抜粋、『わが一九二二年』より、『佐藤春夫全集』ちくま文庫所収P427)

佐藤春夫と千代子は、やがて結婚することになります。そのあたりのてんまつについて、興味があれば瀬戸内寂聴『つれなかりせばなかなかに―文豪谷崎の「妻譲渡事件」の真相 』(中公文庫)をお読みください。

◎みすぼらしい薔薇

いささか小田原事件に拘泥しすぎました。佐藤春夫の代表作『田園の憂鬱』(新潮文庫)の紹介をはじめます。本書には物語はありません。佐藤春夫が神奈川県中里村(現横浜市)で、田園生活を開始したときの心情を描いた作品です。

主人公の青年は、心を病んだ詩人です。彼は元女優の妻と、2匹の犬と2匹の猫といっしょに、武蔵野にある村を訪れます。。そこは馬車以外には交通手段のない、辺鄙なところです。2人は案内された萱葺の屋根の家が気に入ります。彼らはそこに居をかまえることに決めます。

――彼等の瞳の落ちたところには、黒っぽい新緑のなかに埋もれて、目眩しいそわそわした夏の光のなかで、鈍色にどっしりと或る落着きをもって光っているささやかな萱葺の屋根があった。(本文P)

家は廃屋に近く荒れ放題で、庭木は伸び放題になっています。青年と妻はその家を大好きな『雨月物語』の「浅茅(あさじ)の宿」にそっくりだと思います。引っ越し当初は、自然のたたずまい、虫や鳥の鳴き声など、なにもかもが心を癒してくれました。

青年は庭の片隅にひっそりとあった、薔薇の株を見つけます。井戸端にそって垣根のように植えられている薔薇は、うっそうと茂る杉や梅や柿の木に光を奪われ、貧相なものでした。青年なゲーテの「薔薇ならば花開かん」という詩句を思いおこします。

――その茎はいたいたしくも蔓草のように細って、尺にもあまるほどの雑草のなかでよろよろと立ちあがっていた。(本文P

青年はみすぼらしい薔薇を前に、次のように考えます。

――どうかしてこの日かげの薔薇の木、忍辱の薔薇の木の上に日光の恩恵を浴びせてやりたい。花もつけさせたい。こういうのが彼の瞬間に起こった願いであった。(本文P)

詩的イメージをまとった薔薇を、みごとに咲かせてみたい。青年は内面から湧き上る力に、身震いします。そして高い木の枝を払い、光を薔薇に集めます。

◎薔薇に自身を重ねる

ところが青年は次第に、田園生活を疎ましく感じるようになります。犬をめぐる隣家とのトラブル。妻の不機嫌。そして長雨……。
やがて薔薇が小さな花をつけます。青年は感激して涙します。

青年はいじけたように咲く薔薇に、都会から逃げ出した自らの姿を重ねます。蛙や虫の鳴き声、明かりに群がる蛾、降りつづく雨……なにもかもが疎ましくなります。青年は幻覚や幻聴におそわれます。心は病み、最後は雨に濡れた薔薇の悲痛な声を聞きます。

『田園の憂鬱』は、自然風景と病める青年の内面を重ねた、詩的な散文です。いくつかの書評を抜粋させていただきます。

――『田園の憂鬱』には、病的にまで鋭い神経が、倦怠と憂愁に苦しむ様子が、ありありと写しだされたのですが、作者はそうしたニヒルな、世紀末的な憂愁を、この小説に書きたかったわけです。(小田切進『日本の名著』中公新書P81)

――主人公の詩人の感性の繊細さと主として自己反省の形で現われる知性の鋭敏さと、文章の自由な調子の高さは、明治以来の努力のつみ重ねの上に開化した近代日本人の青春のかってなかった美しい表現でした。(中村光夫『日本の近代小説』岩波新書P198)

佐藤春夫は『田園の憂鬱』の冒頭で、訪れた萱葺き屋根の家を、「どこかで見たことがある」と青年に語らせています。この家こそ、主人公自身の姿だったのだと、最後になってわかりました。
(山本藤光:2012.06.30初稿、2018.03.01改稿)

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