奈良

不比等

古都奈良・修学旅行と世界遺産の街(その572)

2018-03-19 08:15:00 | 奈良・不比等
「勘定奉行の江戸時代(藤田覚著・ちくま新書2018刊)」を読んだ。藤田覚(ふじたさとる1946生れ)氏は東北大学大学院博士課程単位取得退学後、東京大学文学部教授を務め、現在は東大名誉教授である。専攻は日本近世史とのことである。----
「勘定奉行の江戸時代」では、幕政の改革に勘定奉行がどのように関わり活躍してきたかを論じている。江戸時代は平和な太平の世であるから経済さえうまく回れば日本は問題なく運営できたのである。がしかし、幕府の台所事情は次々と火の車となり、貨幣の改鋳により危機を凌ぐ施策が幕末まで続いたのだそうだ。幕府の読みの外れは、銀山の産出量の減少と、鎖国により貿易の利益が減少したことであるそうだ。自業自得と云えはその通りだが、開幕より260年後の幕末には本当に経済的にも行き詰っていたと云える。------
日本近世史の研究対象となる文献資料は東大史料編纂所に山積みになっているようであり、空襲で焼けていない地方の旧家の倉にも未発見の文献は未だ未だあることだろう。権力争いなどに較べて地味に思える財政の実態を調べる事は気力の要る仕事だと思うが藤田覚氏は随分と挫けずに継続して来られたのだなと感心してしまった。-----
何時の時代も律令の時代から、銭勘定が大切であり、大蔵省なるものが隠然たる力を振るってきたのだろう。武力だけでは平時の支配は出来ないのだから。町奉行が毛並みの良いキャリアの旗本しかなれなかったのに対して、勘定奉行には10%のノンキャリアがその職に就いているそうだ。幕末の川路聖謨などもノンキャリアの出世頭であったと書いている。
今も昔も汚れ仕事は下位の職種として位置付けて上位の者が下位の者を使って仕事をする訳だが、江戸時代で見るとその下位の職であった勘定奉行の地位が徐々に上がって俸給は町奉行と同額になってしまったのだそうだ。それは当たり前とも云える理屈は俸給を決める勘定奉行が聖人君子ではないのだから自分の俸禄を少しづつ上手に上げて行ったものと思われる。兎に角抜け目なく賢く上司に歯向かわず、気が付けば同列に立っているといった芸当が出来たのだろう。-----
日本史を思い返すと、飛鳥奈良平安時代の律令制と鎌倉以降の幕府の機能を較べる事になるのであるが、武士の平時の支配の方法は様々であり、律令制度の様な仕組みをどの幕府も作れなかったようだ。まあ、一種の軍政であるのだから、問題が起これば木端微塵に粉砕すれば良かったので、そこそこ出来る人材を配しておけば難なくその局面を切り抜けられたのだろう。----
日本近世史は特に江戸時代となると近代と全く違わない考え方で世の中が動いていたことが研究が進むにつれて良く分かるようになってきた。人間の頭脳はそれ程進歩しているのではないのだから。もっと云えば律令時代からの官僚制度は曲りなりに続いてきたものと思われる。権力支配の主人公が如何様に変わろうとも。
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