興福寺・仏教文化講座(平成29年2月11日)の瀧浪貞子(たきなみさだこ)先生の講演は「藤原内麻呂(ふじわらうちまろ)」でした。藤原四家の内、北家が隆盛していく上で「藤原内麻呂」の役割は多大なものがあった。南家・式家・京家が没落していく中で、北家は桓武天皇・平城天皇に上手に仕えてその地位を盤石とした。興福寺・南円堂は「北家ファースト」を願って「藤原内麻呂」が発願(ほつがん)し、その子「藤原冬嗣」が建立したのであると「瀧浪貞子」女史は述べられた。-------
「藤原内麻呂」は三男であり、藤原氏の中で活躍する人に長男は少ないのだとか。そう云えば、藤原不比等も次男であった。-----
支配層における権力闘争は熾烈なものがあり、それが日本書紀・続日本紀・日本後紀など六国史に詳しい。遣唐使の派遣が続く間は大唐帝国への貢納品として国家の正史を編纂していたと考えられる。従って可なり事実を歪曲せずに記録したものと思われる。それにしても権力闘争に敗れた側は可哀そうな限りである。唯、中央でどのような権力闘争があろうとも、大和朝廷の支配構造はびくともしなかった。------
「藤原内麻呂」の事績として「徳政相論」の話が出てきたが、桓武天皇は平安京の造営と蝦夷征討を中断し、民の生活を慮(おもんばか)る。しかしながらこのことにより、日本では300年の後ではあるが、平安時代末期に至り武士の勃興を余儀なくされて中央集権の仕組みが弱まって仕舞う。
「藤原内麻呂」は三男であり、藤原氏の中で活躍する人に長男は少ないのだとか。そう云えば、藤原不比等も次男であった。-----
支配層における権力闘争は熾烈なものがあり、それが日本書紀・続日本紀・日本後紀など六国史に詳しい。遣唐使の派遣が続く間は大唐帝国への貢納品として国家の正史を編纂していたと考えられる。従って可なり事実を歪曲せずに記録したものと思われる。それにしても権力闘争に敗れた側は可哀そうな限りである。唯、中央でどのような権力闘争があろうとも、大和朝廷の支配構造はびくともしなかった。------
「藤原内麻呂」の事績として「徳政相論」の話が出てきたが、桓武天皇は平安京の造営と蝦夷征討を中断し、民の生活を慮(おもんばか)る。しかしながらこのことにより、日本では300年の後ではあるが、平安時代末期に至り武士の勃興を余儀なくされて中央集権の仕組みが弱まって仕舞う。
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