8月15日、閉館が決まった銀座シネパトスで、ドキュメンタリー映画『ニッポンの嘘~報道写真家 福島菊次郎90歳~』を観てきました。
午前中は仕事などが入ってしまい、午後に駆け足で行ってきたのですが、カメラを持って行けばよかった・・・。映画を観た後、東京駅まで歩いたのですが、昭和の面影を残す銀座の建物は、4丁目の有名どころを除けば、このシネパトスぐらいだったからです(裏通りはまだ面影が残っていますが)。
久しぶりのシネパトスで、この映画館が入替え制ではなく途中入場も可能な映画館だったことや、地下鉄銀座線の走行音と振動が映画上映中にひっきりなしに聞こえてくることを、懐かしさと共に思い出しました。
終映後、誰が入るのか知らないけれど巨大な商業ビルに変身した片倉ビル跡地(同ビルは昭和の名建築の一つだった)を横切り、20年近く通う間に決定的な変貌を遂げた東京駅八重洲南口から中央線の乗り場へ向かいながら、もう一度シネパトスに行かねばならないと思いました。
映画の中で、菊次郎さんは「昭和を終わらせてなるものか」と、怒気をこめて呟きます。国家というものがつく「嘘」に無残に葬り去らされた名もない人々を決して忘れない、そんな人々は最初から存在しなかったのごとく歴史を書き換えさせない、という強い想いが感じられます。
死んでいったものに何と申し開きをすればいいのだろう・・・。菊次郎さんが最初に被写体にした広島の被爆者、中村杉松さんのお墓を訪ねて慟哭する場面は、とても言葉にできません。
菊次郎さんの孤独な戦いは、「徹頭徹尾、負け戦」だったと述懐しています。杉松さんの写真を撮った後は精神病院に入院するほど苦悩し、80年代にはメディアに絶望して瀬戸内海の無人島で自給自足の生活に半ば逃亡します。今は、国家に抵抗しながら(年金受け取りを潔く拒否)、愛犬のロクと山口県のアパートで平和に暮らしていました。
2011年3月11日、大震災と原発事故が起きました。福島原発3号機の水素爆発をニュース映像で目撃した菊次郎さんは、カメラを持って福島へ向かいました。広島と同じことが起きてしまったという痛恨の想いと、広島と同じように収束するだろう未来の結末に対する憤り。90歳の体に鞭を打って、最後の戦いを開始したのです。
1946年、菊次郎さんは広島で被爆者を撮り始めます。ライフワークとなる被爆者の撮影を続ける一方で、学生運動、自衛隊、兵器産業、公害、ウーマンリブ運動、そして原発と祝島という具合に、80年代初頭まで「嘘」の最前線に立って、日本のあり方を世に問い続けてきました。
今日のNHKスペシャル『終戦 なぜ早く決められなかった』でも取りあげられていましたが、この戦争を開始し指導にあたった者たちの度し難い無能さと彼らを取り巻く環境が、今の日本と構造的に全く同じであるというか、全く変わっていないことを痛感します。
昭和の戦争の時代だけではありません。足尾銅山鉱毒事件の発覚から終結(したのか?)までの一連の出来事が、原爆症や水俣病などの公害病あるいは薬害に苦しむ人々たちの身の上に、しょうこりもなく繰り返されています。ならば、今度の原発事故でも、彼らと同じ苦しみと、彼らと同じ言われなき差別が繰り返されるでしょう。
この映画の題名は『ニッポンの嘘』ですが、菊次郎さんが撮ってきた25万枚以上の写真は、全て「真実」を訴えています。
90歳の菊次郎さんは、植草甚一さんのように格好良い! アナーキーで、いつまでも少年のように若々しく、多感で・・・。広島で写真を撮り始めてから66年、私なんか足元にも及びませんが、菊次郎さんのように生きたい!と思います。声なき声に耳を傾け、虐げられるものに寄り添って・・・。死ぬまで「負け戦」を生きぬこう。そんな強い気持ちにさせてくれる映画でした。
映画『ニッポンの嘘~福島菊次郎90歳~』の公式HPは、 → ここをクリック
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