青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

昭和47年・高知県 雨坪の大災害

2020-11-25 | 昭和・思い出は色褪せない

昔は何年かに1回しか起きなかったような災害が、今は毎年どこかで必ず起きています。そのたびに命が失われ、復旧に時間が掛かります。僕自身、阪神淡路・東日本、北大阪の3つの大きな地震で被災しましたが、台風や土砂災害の記憶もあります。

田舎である高知県に遊びに行っていた小学生の時、台風が高知県を直撃。家に板を釘で打ち込んでいるのを見て、まるで漫画みたいだと思った日の夜、瓦が手裏剣のように空を飛び交い、ドアは吹き飛び、畳が空飛ぶ絨毯のように浮き上がり、大人と一緒にその上で飛んで畳を落としました。夜が明けたら、家の前の景色は一変していました。家は一段高い場所にあったので、周囲の田畑を見下ろすようになっていたのですが、一面の田んぼが「川」になっていました。川の中に家が一軒建っているような光景は、今でも忘れません。

記録的大雨が頻繁に降る高知県の繁藤(しげとう)は、昔は雨坪(あまつぼ)と呼ばれ、名前の通り高知県でも大雨が降る地方です。僕の母親の田舎であり、今も我が家のお墓がありますが(我が家はお爺さんの代までは、この辺りの山の地主だったそうです。1つ1つ失い、今はもう・・)昭和47年にはここで大災害がありました。

山腹が、いくつかの雷が一度に落ちたような大きな音と共に幅170m、長さ150m、高さ80mにわたって大崩壊を起こし、10万m³もの大量の土砂が駅周辺の民家のほか、駅および駅構内3番線に停車中だった高知発高松行きの列車を直撃したのです。突如発生した大崩壊による土石流は、家屋12棟や機関車1両と客車1両を一気に呑みこみ、現場付近でこの日以前にも起きていた土砂崩壊による救助活動を行っていた町職員や消防団員、その活動を見守っていた周辺住民や列車の乗務員、乗客らを巻き込んだ後、駅背後を流れる20m下の穴内川まで流れ落ち川を埋め尽くしました。

中でも機関車は川の対岸まで飛ばされるほどに土砂に押し流され、1両目の客車が機関車の上に乗りかかるように埋没、2両目が崩れ残った路盤に宙吊りとなり、辛うじて3両目と4両目の客車が被災を免れた。当時の新聞の一面トップで報道され、我が家は親戚の安否確認に騒然となっていたのを覚えています。

僕の叔母さんはこの時、土石流に飲み込まれた道路を歩いており、必死で走って九死に一生を得ました。振り返った時には一緒に走っていた人は誰もおらず、反対方向に走った人たちは全員土石流に呑みこまれました。災害には本当に警戒を怠らないようにしたいものです。

僕は懐中電灯、ランタンはベッドサイドに置いていますし、水なしで作れる非常食、水・お茶は備蓄。緊急時の簡易トイレも用意しています。(水道が止まって困るのは、実はトイレです)地震の後、電車が停まっている時は、自動車では道路もひどく渋滞しますので、移動手段としてのバイクも準備しています。家の中には、頭の上に落ちて来て怪我をするものは置いていません。

1000年に1度を想定したハザードマップを見て、どんな備えをしていても、何かが起きることを防ぐことは出来ません。出来るのは、何かが起きた時の「対応」です。それを可能にするのは、日頃から「何が起きるか分からない」という考えを持ち、いかにリスクを軽減する行動を取ることが出来るかどうかです。自分で考え、判断し、行動を取る為には、物資の準備・情報の取得だけではなく、心の強さ、体力は不可欠です。



最新の画像もっと見る