僕の世代は多くの人が、巨人ファン。いや、ON(王・長嶋)のファンだったと思います。漫画と言えば「巨人の星」「侍・ジャイアンツ」など、多くが巨人軍を舞台にしたものばかり。野球帽と言えば巨人軍のものしか売っていませんでした。記憶の長嶋、記録の王などと言われますが、二人共間違いなく我々の世代のヒーローでした。その一方の雄、王監督がプロ野球界に入って半世紀が経った50年目の今日、遂に長きキャリアにピリオドを打ちました。これまで本当に「ありがとう」。
甲子園球場には何度も王・長嶋を観戦に行きました。甲子園の阪神側スタンドでは、いくら僕でも巨人の応援は出来ませんでした。(笑)命がいくらあっても足りません。1番お気に入りの観戦場所はジャイアンツのレフト側外野応援席でした。焼きそばを食べながら観戦したものです。ナイターは結構冷える時もありました。V9時代にも観戦には行っています。
でも王さんと個人的に会ったのは、1度だけ。神戸オリエンタルホテルがホークスの宿泊場所になっていたのですが、そこに偶然仕事で缶詰になっている時、会えたらいいなと思っていた王監督に会うと言う念願が叶いました。勿論サインも頂きました!
プロ野球・福岡ソフトバンクホークスの王貞治監督(68)が23日、ユニホームを脱ぐことを決意した。王貞治という不世出の野球人が、プロのユニホームに初めて袖を通して今季が50年目。野球界を牽引し続けた『世界の王』が、長きキャリアにピリオドを打った。(その内19年間が監督)前身のダイエー時代の95年に監督に就任して14年。巨人の監督時代を含めると19年間の監督生活にも終止符を打った。「14年間、私は幸せでした」。1時間に及ぶ会見で、歩んできた野球人生を振り返った。
「ユニホームを着て戦いながら、グラウンドで死ねたらいい。いくつまででも(監督を)できると思っていた。でも、手術をしてから、体重も減った。足下もおぼつかないといえば、語弊がありますが、自分の足ではない感じもしました…」
WBCで世界の頂点に立った2006年。胃がんが発覚し、胃の全摘出手術を受けた。85キロだった体重は15キロ以上減った。先月14日のロッテ戦(千葉マリン)では体調不良でベンチ入りができなかった。酷暑の試合前は監督室で横になり、体力を温存したときもあり「現場の最前線で『突撃』という立場の人間がこれでは、士気に影響する」。
グラウンドには、立ち続けたい。しかし「選手というのは、監督を見ているもの」。体調不良を押し隠していても、ちょっとしたしぐさで、気づかれる…。陣頭指揮に耐えるだけの体力に、自信が持てなくなった。さらに今月に入って、3勝14敗と失速したのも決断のひとつの要因になった。
今月20日の試合前、球団側に、正式に辞意を申し入れた。孫オーナーの慰留にも「私は頑固。わがままを受け入れてもらい、ありがたい」。この日の試合前、戦線離脱中の斉藤、小久保、川崎も呼び、全選手、スタッフの前で、今季限りで監督を辞する決意を伝えた。
「ひとつの道に、どっぷりつかって、68歳になっても、ときめかせてもらえて、幸せでした」
巨人監督時代は日本一になれず、ダイエーの監督就任直後も低迷。2年目の1996年、遠征中の移動バスに生卵をぶつけられた。『名選手、名監督ならず』-。しかし、球界の“通説”に、王監督は立ち向かった。小久保、松中を一流打者に育て、城島、井口をメジャーへ羽ばたかせた。かつての主将・秋山に2軍監督を経験させ、昨季からは、ヘッド格として帝王学を伝授。王イズムの継承態勢も万全だ。
来年3月に開催が迫った第2回WBC。「日本球界で必要とされ、求められるのなら、進んで協力すべきと思う」と“総監督的立場”での尽力を惜しまないことも改めて表明した。ユニホームは、いったん脱ぐ。しかし、野球への情熱は、決して、王の心から消えることは、あり得ない。
■ 阪神・星野仙一シニアディレクターの話
「今までずっと王貞治という看板を背負ってこられた方だから、体力面に不安を感じた2年間はつらいシーズンだったと思う。北京五輪で負けて日本に帰ってきた時に、電話で励まされたことは一生忘れません。今はゆっくりと体を休めてください」
■ 長嶋茂雄・元巨人監督の話
「ダイエー、ソフトバンクで14年間、本当にお疲れさまでした。大病を患った後も、多くのファンや野球界のために指揮をとり続けた情熱には頭が下がります。今のパ・リーグの盛り上がりも、王監督の努力があったからこそと思います。個人的には2000年の日本選手権(日本シリーズ)に、お互い監督として戦えたのがとてもいい思い出になっています。王監督がユニホームを着ていない野球界は寂しく思え、非常に残念ではありますが、しばらくはゆっくりしてください」
王監督の主な一問一答
23日、福岡市内のホテルで開かれた退任記者会見でプロ野球ソフトバンク・王貞治監督(68)は寂しさをにじませながら輝かしい半生を振り返った。福岡に根付いて14年、駆け付けたファンから「お疲れさまでした」と大きな声が飛んだ。
――病気をしてから
「体力に自信はあったが、面はゆい、じれったいという思いで過ごしてきた2年間だった」
――体調面は
「グラウンドでユニホームを着て死んでもいいという思いがあったが、手術してから体重も減ったし、自分の足ではないような思いをすることがあった」
――昨季終了後、今年が「最後の年のつもり」と選手に伝えた
「監督生命を懸けて、と話したことで、かえってプレッシャーをかけてしまった。一番の反省点」
――チームは5位
「結果責任は当然ある。流れを変える大きな動きが必要と感じた。(チームが)生まれ変わるためにも、監督交代が必要だと」
――不本意な成績で退任
「最後を飾って、ということは、自分自身思っていなかった。すべて丸くいけば最高だが、なかなかそうもいかない」
――ここまで振り返って
「プロ野球に入って50年。本当にいい人生を歩ませてもらった。心をときめかせて、やらせてもらったのは幸せだった」
――退任を決意するまで
「激しい気持ちの揺れ動きはあった。正式に表明でき、ほっとしている」
――監督復帰は
「現時点では考えていない。東京に家はあるが、福岡は自由に動ける拠点にしたいと思っている」
――今後の野球界とのかかわりについて
「必要とされることがあり求められたら、進んで協力すべきだと思っている」
――辞意を表明した今の気持ちは?
「選手を辞めるときも葛藤がありました。自分の中で辞めるときではないか、まだやれるという気持ちの中で引退を表明したのが40歳のときでした。今回、すごく似た心境でした。気持ちの激しい揺れがありましたが、正式に表明できたことにはホッとしたという気持ちもあります。これからは前に突き進むだけ、ですから。
元気なときはいつまでも(監督業を)できると体力に自信を持っていましたが、(2006年に)手術をしてからは体重も減りましたし、足も自分のものではないような感覚を持ったときもありました。"監督"とは現場で最前線に立って先頭を切っていかないといけないものだと思っています。試合を重ねていくうちに(現在の自分では)指揮に影響するという想いが強くなりました」。
――ファンの皆さまへメッセージを
「私は14年間でしたが、ホークスが福岡にやってきて20年。弱かった時代も、強くなってからも、優勝から遠ざかっているときでも、本当にファンの皆さんが常に熱烈な応援をしていただきました。九州唯一の球団だからでしょうか、その距離をものすごく近く感じていました。熱意が直に伝わってくる感じがしていました。その熱意に支えられて戦ってこられたと思っています。この14年間、私は本当に幸せでした。これからもそのようなファンに支えられて戦っていく若い選手たちも本当に幸せだと思います。これからの大いなる可能性のあるホークスを、ファンの皆さんと一緒に見守っていきたいと思っています。また、第2の故郷でもある福岡、私の野球人生の中でも大きな割合を占めるホークスを想う気持ちはますます強くなると思います。何かできることがあれば100パーセント力を出し切りたいと思っています」。