「こうして、主の契約の箱はダビデの町に入った。サウルの娘ミカルは窓から見下ろしていたが、ダビデが飛び跳ねているのを見て、心の中で彼を蔑(さげす)んだ。」(Ⅰ歴代誌15:29新改訳)
神の箱が自分の町に来る、うれしくてたまらないダビデは、行列の先頭で力のかぎり飛んだり跳(は)ねたりして喜びおどった。なんと純真で幼な子の心を持った王であろう。しかし神への信仰が理解できないサウルの娘ミカルは夫ダビデの姿格好(すがたかっこう)と踊(おど)りを見て、これがイスラエル王のすることかと顔をしかめ、軽蔑(けいべつ)したのである。▼今もそうである。霊的、信仰的なことを理解しないキリスト者は、体面や表面的儀式だけを重んじ、純粋素朴(じゅんすいそぼく)な信仰者たちを見てあなどることが多い。主イエスもあなどられた。学者やパリサイ人は主を「取税人や遊女、けがれた病人たちと平気で交わり、手も洗わず食事し、大酒を飲む者」と言って蔑(さげす)んだ。主が事実、酒を飲んだかどうかわからないのに、汚名を着せて社会から排除(はいじょ)しようとした彼らの罪はミカルと同類であり、行き着いたのが十字架刑であった。