しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 Ⅰ列王記17章<ケリテ川にて> 

2020-07-27 | Ⅰ列王記

「そこでエリヤは行って、主のことばどおりにした。彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。」(Ⅰ列王記17:5新改訳)

北イスラエル王国に臨んだ大干ばつ、国中が生死の境に追い込まれたとき、神はエリヤに「ケリテ川のほとりに行って住め」と言われ、続いて「烏にあなたを養わせる」とも言われた。▼考えてみるエリヤにとっては、つらい指示である。小さな川のほとりに隠れ、犬のように水を飲み、野鳥が落とす食べ物で生きよ、というのだ。普通人なら腹を立てるか、あまりに惨めな内容に涙したかもしれない。が、これはエリヤに対する神の御取り扱いであった。そこで毎日祈り続け、祖国が偶像を捨てて真の神に立ち返るよう求めたのだ。謙遜、忍耐、信仰がなければとうてい不可能な霊の戦いをすべく、預言者は神に招かれた。▼私たちも、祖国日本が偶像礼拝を放棄するような祈りを求められている。尋常一様の祈りでは絶対に壁がくずれない。エリヤと同じ霊戦に身を渡す人はいないか、と神は求め給う。◆主イエスもまた公生涯に出発しようとするとき、まず荒野に導かれた。ヨルダン川で洗礼をお受けになると、「すぐに、聖霊は内側から彼を荒野(砂漠)へ追いやられた。彼は荒野(砂漠)に40日間おられて、その間サタンに試みられた」(マルコ1:12,13詳訳)と記されている。パウロもダマスコ途上で劇的回心を遂げると、ひとりでアラビアに出て行き、しばらく過ごしたと証ししている(ガラテヤ1:17)。神は将来用いる器を、わざわざ孤独の中で過ごさせ、ご自身との交わりのうちにおかれるお方だということがわかる。◆使徒ヨハネの場合もきびしかった。彼はたぶん80歳を越えてであろうが小島パトモスに送られ、石切り鉱山で重労働させられたのだ。どんなにつらかったであろう。すでにペテロや他の使徒たちは天に召されて、完全な孤独におかれ、労働の合間にひとり祈ったが、そこで天が開かれ、黙示録を見せられたのであった。この書のおかげで、以後2千年のキリスト教会は言語に絶する迫害、試練を受けてもひるむことなく、希望を抱き続けられたのであった。◆私たちも、ひとりぼっちで「荒野に行かされる」ことを少しも恐れる必要はない。そこでは心行くまで神と交わることができるからである。

 


朝の露 Ⅰ列王記16章 <ヤロブアムの道>

2020-07-23 | Ⅰ列王記

「わたしは、あなたをちりから引き上げ、わたしの民イスラエルの君主としたが、あなたはヤロブアムの道に歩み、わたしの民イスラエルに罪を犯させ、その罪によってわたしの怒りを引き起こした。」(Ⅰ列王記16:2新改訳) 

北王国にはヤロブアムから数えて二〇人の王が立ったが、主をおそれる敬虔な王はひとりも出なかった。たとえば、決まり文句のように記されることばがある。「ところがあなたは、これまでのだれよりも悪いことをした。」(Ⅰ列王記14:9、ヤロブアムについて神の宣告)、「オムリは主の目に悪であることを行い、彼以前のだれよりも悪いことをした。」(Ⅰ列王記16:25同)、「オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行った。」(Ⅰ列王記16:30同)。つまり北王国では、金の子牛礼拝が二百年も続き、腐敗と堕落の下り坂を一直線に転げ落ちたわけで、偶像礼拝の絶望的根深さを思わせられる。その点、ユダ王国は少しマシだったかも・・・。▼つまり、レハブアム以後二〇人の王が出たのだが、その中にはアサ、ヨシャファテ、ヨアシュ、ウジヤ、ヒゼキヤ、ヨシヤといった敬虔な人物がおり、宗教改革によって国の堕落を食い止めようとした。そのため、北イスラエルが滅んだ後も135年間もちこたえたのであった。そのあいだ、数多くの預言者たちが神より遣わされ、王と国民に審判の切迫を告げ、悔い改めをうながしたのである。だが、それでも滅亡はやって来た。▼このことは、イエス・キリストによって新しく生まれ変わらなければ、人にも国にも真の希望はないという事実を証明している。いうまでもなく、国が新しく生まれ変わるとは、イエス・キリストの御再臨により、世界が神の国となり、ついには新天新地の出現となることにほかならない。

 

 


朝の露 Ⅰ列王記15章<神のことばは不変>

2020-07-22 | Ⅰ列王記

「しかし、ダビデに免じて、彼の神、主は、彼のためにエルサレムに一つのともしびを与えて、彼の跡を継ぐ子を起こし、エルサレムを堅く立てられた。」(Ⅰ列王記15:4新改訳)

北イスラエルと南ユダ王国の歴史を学ぶと、ふしぎな事実に気がつく。どういうことかというと、北は次々と王が殺され、目まぐるしく王朝が交代したのに、南ユダはダビデの血筋が決して途絶えなかった、ということである。▼幾度も危機があった。たとえばダビデから八代目の王アハズヤが殺されたとき、その一族はすべてアタルヤという悪女に滅ぼされてしまったのである(Ⅱ列王記11章)。本来ならここでダビデの血筋は絶えてしまうはずであった。ところが、エホシェバという女性により、アハズヤの子ひとりが救い出され、六年間の潜伏のあと、王位に就いたのであった。つまり、たった一本の糸のようにダビデの血統が守られたのであった。▼神のことばと約束は絶対的な確かさを持つ。ダビデから一千年、その子孫は続き、ついにイエス・キリストの誕生となった。主は言われる、「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」(マタイ24:35同)と。聖書は神のことばであるから、天地が消え去っても消え去らない不変性を持つ。その意味で、いま世界に存在する何十億、何百億冊の本とは全く違うのである。主の日が盗人のように突然やって来る時、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きは消滅する(Ⅱペテロ3:10同)。すなわち人の言葉を記した本も、その思想も、あらゆるものは消滅する。主のおことばだけが、そのとき残るのだ。だから人は聖書のみことばを人生の全てとして生きる、それがもっとも賢明な生き方なのである。▼日本の文化と教育の誤りは、神のことば・聖書を多くの本の中の一冊と捉えている事である。そしてキリストの教えを、数ある人間の思想の一つとしか教えない、それが正しい教育だと思い込んでいる。だから子供や青少年は聖書を神話と理解したまま生涯を送ることになる。そこに致命的なミスがあることに気が付かない。このままの歴史をたどるならば、天地がなくなった最後の審判の日、日本人のほとんどは震えながら、永遠の神と神のみことばなるキリストの御前に立つことになるであろう。

 

 


朝の露 Ⅰ列王記14章<始まった堕落の歴史>

2020-07-21 | Ⅰ列王記

「この国には神殿男娼もいた。彼らは、主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の、すべての忌み嫌うべき慣わしをまねて行っていた。」(Ⅰ列王記14:24新改訳)

かつてモーセはカナン占領前のイスラエルにきびしく命じた。「イスラエルの女子は神殿娼婦になってはならない。イスラエルの男子は神殿男娼になってはならない」(申命記23:17同)と。ところが北と南の両王国は、ソロモン以後みるみる堕落し、異邦人と同じ様になった。▼人間が持つ堕落性は、宗教の名のもとに淫行にふけることを慕う。昔から洋の東西を問わず、名だたる宗教施設の近くには必ず歓楽街があり、人々は偶像を礼拝したあと、そこで快楽をほしいままにした。▼肉欲の生涯に待ち受けるのは永遠の滅びである。イエス・キリストはそこから私たちを救うため、十字架上にのろわれた者となり、情と欲の支配下にある古き人を殺してくださった。これ以外に真の解放の道は存在しない。「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。」(ガラテヤ5:1同)◆現在わが国では新型コロナ・ウイルスが大問題になっている。東京や大阪といった都市では、いわゆる歓楽街などが感染の中心となっており、為政者も抑えきれない状況だ。私がこれをみて感じるのは、コロナとの最終的な戦いは結局のところ、自分との戦い、欲望との戦いであるということだ。生まれながらの人間だれもがもっている邪悪性、男娼や娼婦の道、それを楽しむ道、たとえ地獄に落ちてもかまわないからそうしたい、という欲望である。この燃え盛る炎が日本人の心から消えることがあれば、コロナは消滅するであろう、まちがいなく・・・。◆それは、イエス・キリストの十字架によってのみ可能である。なぜかといえば、「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。死んだ者は、罪から解放されているのです」(ローマ6:6,7同)と明記されているからである。イエス・キリストはただ一度、罪に対して死なれた。それは彼を信じ、彼によりすがる人が「罪に対して死んでしまうため」であった。さらにキリストは今、神に対して生きておられる。それは彼を信じ、彼によりすがる人も「神に対して生きるため」なのである。

 


朝の露 Ⅰ列王記13章 <ユダから来た神の人>

2020-07-20 | Ⅰ列王記

「神の人の後を追って行った。そして、その人が樫の木の下に座っているのを見つけると、『ユダからおいでになった神の人はあなたですか』と尋ねた。その人は『私です』と答えた。」(Ⅰ列王記13:14新改訳)

名前が記されていない、この神の人は北王国に行き、ヤロブアム王に警告するよう命じられた。文字通りいのちがけの使命だったが、それを果たし終え、ユダに帰還する途中、誘惑を受けたのである。▼そもそも預言者の使命は、神の指示に絶対的に従うことにより完遂されるもので、一切の不従順があってはならない。バラムが出かける途中で神に打たれそうになったのも、心に不従順な思いを抱いたからであった(民数記22章)。この神の人は使命を果たした後、樫の木の下でゆっくり休んだことがまちがいで、ひたすら歩き続け、ユダに帰るべきではなかったろうか。そうしないで油断し、しかもベテルの老預言者に気を許して招かれるまま家に行き、食事をしたのであった。彼の横死は、主のおことばを軽視する罪がどんなに重いかを物語る。新約の「神の人」とされた私たちもおそれつつ本章を味わいたい。▼本章にあるもう一つの悲劇、それはヤロベアム王の頑なさと高慢である。ユダから来た預言者がヤロベアム王の作った偶像の祭壇に向かって、神の審判を叫んでいた時、王は「彼を捕らえよ」と家来たちに命じた。ところがその瞬間、彼の伸ばした手が「しなび、戻すことができなくなった」ではないか。おどろいた王は預言者に詫び、神に祈って治してくれとたのんだので腕は元通りになった、と記されている。▼この奇蹟はヤロブアムに対する神の御警告だった。すなわち「偶像礼拝をやめよ」という警告なのであった。しかし彼は治ると安心したのか、自分の悪をやめず、生涯続けたのである。神から選ばれ、イスラエルの王位に着いたヤロブアムだったが、そのために一家は根絶やしにされてしまった。その子ナダブはわずか2年だけ王位にあったが、家来のバアシャがクーデターを起こし、ナダブはもちろん、ヤロブアムの全家を討ち、息のある者をひとりも残さず、根絶やしにしてしまったのであった。使徒パウロの声がひびくではないか。「罪の報酬は死です(それ罪の払う価は死なり・文語)。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23同)