「そこでエリヤは行って、主のことばどおりにした。彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。」(Ⅰ列王記17:5新改訳)
北イスラエル王国に臨んだ大干ばつ、国中が生死の境に追い込まれたとき、神はエリヤに「ケリテ川のほとりに行って住め」と言われ、続いて「烏にあなたを養わせる」とも言われた。▼考えてみるエリヤにとっては、つらい指示である。小さな川のほとりに隠れ、犬のように水を飲み、野鳥が落とす食べ物で生きよ、というのだ。普通人なら腹を立てるか、あまりに惨めな内容に涙したかもしれない。が、これはエリヤに対する神の御取り扱いであった。そこで毎日祈り続け、祖国が偶像を捨てて真の神に立ち返るよう求めたのだ。謙遜、忍耐、信仰がなければとうてい不可能な霊の戦いをすべく、預言者は神に招かれた。▼私たちも、祖国日本が偶像礼拝を放棄するような祈りを求められている。尋常一様の祈りでは絶対に壁がくずれない。エリヤと同じ霊戦に身を渡す人はいないか、と神は求め給う。◆主イエスもまた公生涯に出発しようとするとき、まず荒野に導かれた。ヨルダン川で洗礼をお受けになると、「すぐに、聖霊は内側から彼を荒野(砂漠)へ追いやられた。彼は荒野(砂漠)に40日間おられて、その間サタンに試みられた」(マルコ1:12,13詳訳)と記されている。パウロもダマスコ途上で劇的回心を遂げると、ひとりでアラビアに出て行き、しばらく過ごしたと証ししている(ガラテヤ1:17)。神は将来用いる器を、わざわざ孤独の中で過ごさせ、ご自身との交わりのうちにおかれるお方だということがわかる。◆使徒ヨハネの場合もきびしかった。彼はたぶん80歳を越えてであろうが小島パトモスに送られ、石切り鉱山で重労働させられたのだ。どんなにつらかったであろう。すでにペテロや他の使徒たちは天に召されて、完全な孤独におかれ、労働の合間にひとり祈ったが、そこで天が開かれ、黙示録を見せられたのであった。この書のおかげで、以後2千年のキリスト教会は言語に絶する迫害、試練を受けてもひるむことなく、希望を抱き続けられたのであった。◆私たちも、ひとりぼっちで「荒野に行かされる」ことを少しも恐れる必要はない。そこでは心行くまで神と交わることができるからである。