「死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方。この方に誉れと永遠の支配がありますように。」(Ⅰテモテ6:16新改訳)
弟子テモテへの手紙を結ぶにあたり、思わず発せられた神に対する賛栄である。▼この背後に、パウロのダマスコ途上における経験があったのではないだろうか。彼は憤怒に燃え、キリスト者たちを捕らえようと向かっていたその時、神の光に撃たれ、地に倒れたのであった(使徒9:3同)。おそらくその瞬間、彼は「近づくこともできない光の中に住まわれる」神というより、その光の片鱗を見たと思う。▼ほんの一瞬、神を包む放射閃光を見ただけなのに、打ち倒され、盲目になったパウロ。彼はそこで、罪ある人間が決して見ることをゆるされない絶対者の栄光と尊厳、威光を体験したのである。それにもかかわらず、主イエスは「わたしを見た人は、父を見たのです」(ヨハネ14:9同)と言われる。なんという不思議、なんという恵み、そして喜びであろうか。◆白熱の太陽、その直径は140万キロ、表面温度は6千度という。その外側にはコロナというプラズマ・ガスの層があって温度は数百万度と推定される。宇宙では点にすぎない太陽ですら、私たちが近寄ればあっというまに蒸発してしまう火炎の固まりなのだ。だから、これを創造された神が、人となって地上に来られたのは奇蹟であり、神のご慈愛そのものなのである。◆ユダヤ人はこのお方を蔑み、ナザレの大工のせがれと小ばかにした。その傲慢、その無知、その測り知れない罪深さを思うべきである。灼熱の太陽に恐れをいだき、手を合わせて拝みながら、それを創造されたお方をあなどり、差し伸べられた愛の御手を払いのける、自分自身の心が持つ邪悪さ、邪曲さに身震いして悔い改めるべきである。