しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 Ⅰテモテ6章 <唯一の方>

2019-10-26 | Ⅰテモテ

コスモス「死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方。この方に誉れと永遠の支配がありますように。」(Ⅰテモテ6:16新改訳)

弟子テモテへの手紙を結ぶにあたり、思わず発せられた神に対する賛栄である。▼この背後に、パウロのダマスコ途上における経験があったのではないだろうか。彼は憤怒に燃え、キリスト者たちを捕らえようと向かっていたその時、神の光に撃たれ、地に倒れたのであった(使徒9:3同)。おそらくその瞬間、彼は「近づくこともできない光の中に住まわれる」神というより、その光の片鱗を見たと思う。▼ほんの一瞬、神を包む放射閃光を見ただけなのに、打ち倒され、盲目になったパウロ。彼はそこで、罪ある人間が決して見ることをゆるされない絶対者の栄光と尊厳、威光を体験したのである。それにもかかわらず、主イエスは「わたしを見た人は、父を見たのです」(ヨハネ14:9同)と言われる。なんという不思議、なんという恵み、そして喜びであろうか。◆白熱の太陽、その直径は140万キロ、表面温度は6千度という。その外側にはコロナというプラズマ・ガスの層があって温度は数百万度と推定される。宇宙では点にすぎない太陽ですら、私たちが近寄ればあっというまに蒸発してしまう火炎の固まりなのだ。だから、これを創造された神が、人となって地上に来られたのは奇蹟であり、神のご慈愛そのものなのである。◆ユダヤ人はこのお方を蔑み、ナザレの大工のせがれと小ばかにした。その傲慢、その無知、その測り知れない罪深さを思うべきである。灼熱の太陽に恐れをいだき、手を合わせて拝みながら、それを創造されたお方をあなどり、差し伸べられた愛の御手を払いのける、自分自身の心が持つ邪悪さ、邪曲さに身震いして悔い改めるべきである。

 

 


朝の露 Ⅰテモテ5章 <本当のやもめ>

2019-10-25 | Ⅰテモテ

黄花「やもめの中の本当のやもめを大事にしなさい。」(Ⅰテモテ5:3新改訳)

当時の教会は、身寄りのないやもめたちに経済的支援を行っており、そのために登録制度が設けられていた。いわば現在の生活保護のようなものだったと思われる。ここでパウロは「本当のやもめ」とそうでない者を区別しなさいというが、敬虔で信仰深い生き方をしないのに、援助を当てにするやもめたちもいたのであろう。現代社会とよく似ている。▼私たちがすぐ思い浮かべるのは、エルサレムにいたアンナだ。夫に死別し、八十四歳になっても「宮を離れず、断食と祈りをもって、夜も昼も神に仕えていた」(ルカ2:37同)と記されており、「身寄りのない本当のやもめは、望みを神に置いて、夜昼、絶えず神に願いと祈りをささげています」(Ⅰテモテ5:5同)とパウロが記したそのままの晩年を過ごしていた。このような人こそ、教会が助けるにふさわしい聖徒である。▼もうひとり忘れられないのは、レプタ2枚のやもめだ。「イエスは目を上げて、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れているのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨を二枚投げ入れるのを見て、こう言われた。『まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、だれよりも多くを投げ入れました。あの人たちはみな、あり余る中から献金として投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。』」(ルカ21:1~4同)▼主の目は神の御目であり、何もかも見通しておられた。レプタ銅貨2枚が彼女の全財産であることを知っておられたのだ。そしてただ神を信頼し、その助けを心から当てにして、文字通り財の全てを投げ入れたことを知っておられたのであった。私たちは献金するとき、その姿勢がすべて天にいます神の御視界に入っているという事実を、厳粛さと平安に満ちて受け取るべきである。神を大切にする人は、必ず、神に大切にされる。だから何歳になっても神の国と神の義を第一に求め、主を心から愛し、最後まで信仰生涯を走り抜かせていただこう。

 


朝の露 Ⅰテモテ4章 <教えること>

2019-10-19 | Ⅰテモテ

smoke tree「自分自身にも、教えることにも、よく気をつけなさい。働きをあくまでも続けなさい。そうすれば、自分自身と、あなたの教えを聞く人たちとを、救うことになるのです。」(Ⅰテモテ4:16新改訳)

パウロはテモテに「私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい」(13)と命じたが、ここではその働きをあくまでも続けなさい、と重ねて命じている。▼私自身半世紀近く講壇に立って、みことばを取り次いできた。主日礼拝の説教だけでも二千五百回ほど休まずに続けたことになるが、夕拝や祈祷会の奨励も加えればその倍以上になるであろう。不思議に、やめたいと思ったことは一度もなく、みことばを取り次ぐ喜びに押し出されるようにして語って来た。▼神に召されて働けることは、感謝この上ない。小さな私も、テモテとおなじように、ゆるされるかぎり「あくまでも働きを続けたい」との強い願いが心にある。やがて天に携え挙げられたとき、私ではなく、私の内におられた方が、実はあらゆることの「動力源」だったことを発見し、神をほめたたえることになるだろう、と思いながら。◆テモテが牧会していたエペソはアジア州の中心、近くには哲学者を輩出したミレトの町もある。教会にはあらゆる年齢、身分の人々がいたであろうし、青年テモテより年配の信徒たちも大勢いたにちがいない。彼の苦労のほどがしのばれる。パウロが「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい」(11)と勧めているのはそのためであった。知識や学問、すぐれた弁舌で対抗しようとしても、それは無理であったと思われる。だからパウロはそれに続いて、「むしろ、ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい」と言っているのだ。◆牧師にかぎらず、キリスト者は御霊の聖なる臨在のうちを歩んでいるかどうかが生命的なことである。侵しがたい人格、品性、香りの一切は「主がその人と共におられる」という無言のメッセージから発することを忘れてはならない。エゼキエルがまぼろしの中で見た栄光の都・エルサレムは、「この町の名は、その日から『主はそこにおられる』となる」(エゼキエル48:35同)であった。これこそが、私たちと私たちの属する教会の本当の名前であるべきではないだろうか。

 

 


朝の露 Ⅰテモテ3章 <監督>

2019-10-18 | Ⅰテモテ

菊の花「自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。」(Ⅰテモテ3:5新改訳)

パウロが監督の資格について述べたのが1節~7節で、現在でいえば牧師職にあたる。長老と監督はおなじとみてよい(使徒20:17、24)。▼家庭、特に子供たちを十分な威厳をもって従わせることは至難の業だ。現代社会、中でもわが国をみれば、家庭崩壊と言う造語が一般的になっている事実がそれを立証している。私はやはりソロモンのことばが結論だと思う。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(伝道12:13同)▼キリスト者にとり、神を恐れるとは恐怖ではなく、信仰から来る満ち足れる喜びを表す。すなわち神の臨在が家庭内を包んでいることである。父と母がいつも祈り、聖書に親しみ、喜々として教会に通うなら、子供はそれを見て育ち、神の臨在を「肌から吸収」するであろう。誘惑に負けて一時的に迷い出ることがあっても、最終的にはかならず信仰を全うするにちがいない。▼ところが私たちキリスト者の多くは、喜びどころかむずかしい顔、眉間にたてじわをよせて教会に通っている。説教を聞き、1時間の礼拝をささげても、あふれる喜びがない。家に帰って来ると、あの人この人の批判をする。そのような空気の中で育った子供がどうして信仰をもつだろうか。未信者の夫、または妻もそんな配偶者の信仰をじっと見ている。教会に行くようになるはずがない。▼主はパリサイ人に「おまえたちは、白く塗った墓とおなじだ。外はきれいだが、中は死人のけがれで満ちている」と仰せられた。自分もそれとまったく同じなのだ、との自覚が生じるとき、私たちははじめて主の前に謙遜になることができる。自分が死臭と腐敗そのものであることがわかれば、人はだれをも妬まなくなる。心から喜んで説教を受け止めることができるようになる。教会で最後尾に立つことが自然にできるようになる。なにしろ自分が腐った墓なのだから。そして自分は神の火で焼かれる以外にない者だ、という自覚がおのずと生まれるのである。それがその人のペンテコステにほかならない。神はいやでもそのような人を教会の監督としてお用いになるであろう。

 


朝の露 Ⅰテモテ2章 <真理を知る>

2019-10-12 | Ⅰテモテ

コチョウラン 白「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」(Ⅰテモテ2:4新改訳)

ローマ総督ピラトは、自分の前に引き出された主イエスに、「真理とは何なのか?」と質問した。それは主が、「わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います」(ヨハネ18:37同)と言われたからである。▼この世の高位高官、王や支配者たちは、ある意味でもっとも不幸な人々といえよう。なぜなら、彼らは自己の高い地位や権力に満足し、自分は他の者たちより幸福だと思い込んでいるからだ。その上、それらの保全を目指して絶えず陰湿な権力争いを演じ、生涯を費やしており、真理を知ることによってもたらされる本当の幸福から最も遠いところに「心が幽閉されたまま」一生を終える。そして永遠の滅びへ落ちていくからである。▼それゆえ、彼らの実情を知っていたパウロは、本章冒頭で、「何よりもまず・・・王たちと高い地位にあるすべての人のために」とりなし、祈るように勧めたわけである。私たちも、国の為政者や雲上びとと言われている人たちのため、力をこめて祈ろうではないか。◆パウロは4節に引き続き、5節で「神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです」と告白する。このお方こそ完全な神であると同時に、完全な人であられる。このふしぎさに心の目が開かれない限り、救いにあずかることはできない。すなわち真理を知ったことにはならない。世の宗教では、偉人や聖者を神と人のあいだに立てたり、聖母や教皇を立てるが、聖書は人となって世に来られたお方以外を決して仲介者と認めていない。◆ピラトはローマ帝国の支配者階級に属するひとりとして、「わたしは真理である」と仰せられたお方の真正面に、それも1mに満たない距離で立った。しかし彼はわからなかっし、見えなかった。その結果、「ユダヤ人の王イエス」と揶揄する罪票を書き、十字架につけたのである。「父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない」(ヨハネ6:65同)と仰せになった主のおことばの持つ無限の厳粛さを思わずにいられようか。◆その数時間後、反対の事が起こった。主イエスの正面に立っていた百人隊長は、その死の瞬間を見て、「この方は本当に神の子であった」(マルコ15:39同)と言ったのである。