しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 Ⅰテモテ1章 <罪人を救うために>

2019-10-11 | Ⅰテモテ

人形「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』ということばは真実であり、そのまま受け入れるに価するものです。私はその罪人のかしらです。」(Ⅰテモテ1:15新改訳)

救われる以前のパウロはキリスト教を憎み、教会を迫害し、信者に暴力をふるい、猛獣のように荒れ狂っていた。主イエスはその彼をゆるし、異邦人への使徒と任命されたのであった。だから彼は他のどんな人にもまさって、主の御愛と恵みを深く感じていたのである。その証拠に、信仰生涯の初めには「私は使徒の中では最も小さい者であり」(Ⅰコリント15:9同)と言っていたが、半ば頃には「すべての聖徒たちのうちで最も小さな私」(エペソ3:8同)と変わり、晩年近くになると、冒頭聖句にあるように、「私はその罪人のかしらです」と言うようになったことがわかる。キリストの一方的な恩寵が海のように彼を呑みこみ、完全に埋め尽くした。こうして、十字架上でゆるされたあの犯罪人 (ルカ23:43)と同じ心境になったパウロは、主をほめたたえながら天に凱旋して行ったのである。▼問題は私たちである。口では罪人の頭ですと言っているが、はたして「心の底から罪人のかしらです」との告白が全身全霊を満たしているかどうか、ということなのだ。そうであるなら、どんな人から、どんなことを言われ、そのような扱いを受けても喜びあふれているであろう。すべての人の最後尾に位置することが、これ以上ないほどの満足をもたらすにちがいない。かえって、ののしられる時はその人を祝福し、主に感謝してやまないであろう。▼あらゆる場合に忍耐し、絶望とは無縁の日々を送ることができよう。どんな不義をも厭い憎み、主のお慶びが自分自身の喜びになるであろう。罪人のかしらとして生きるとは、そういう生き方が現実化することにほかならない。なぜなら、薄暗い牢獄の中、鎖につながれ、死刑になっていった使徒は最後まで圧倒的な天の歓喜に満ちていたのだから。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:38、39同)

 

 


朝の露 Ⅰテモテ6章 <神の人よ>

2017-04-22 | Ⅰテモテ

つつじ白「しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。」(Ⅰテモテ6:11新改訳)

ここでパウロは、愛する弟子テモテを「神の人よ」と呼んでいるが、めずらしい表現である。永年にわたり、自分を父のように尊敬し、慕い、従ってきたテモテを「真実のわが子」(1:2)と呼び、愛してきたが、本当は神に献身し、神のものとなった青年であり、聖徒のひとりなのである。だからパウロはある意味で尊敬の念をこめて「神の人よ」とよびかけたのだろう。▼自分の働きはそろそろ終わりにさしかかっている。後事はすべて、この純真でひたむきな信仰を抱いている若者にゆだね、天に行かなければならない。一見弱い器に思えるが、世界にできた異邦人教会を指導する立場に置かれた神の人、神の選びの器である事実は動かない。テモテよ、召したもうたお方をしっかり見上げ、自分は普通人ではなく、神の人なのだという自覚に立て。たとえ終わりが私のように殉教であったとしても恐れることはない。真っすぐ永遠を見つめ、勇敢に戦い抜きなさい。パウロはそう言い残して天に召されて行った。▼旧約聖書では、神が共におられると皆から認められた人は「神の人」とよばれた。たとえばサムエルがそうで、「この町には神の人がいます」(Ⅰサムエル9:6)と言われている。福音時代に生かされている私たちキリスト者も、「あの人は神の人だ」と言われるような者にならせていただきたい。福音宣教の前進のために。


朝の露 Ⅰテモテ5章 <道を踏みはずす>

2017-04-21 | Ⅰテモテ

アンスリウム「というのは、すでに、道を踏みはずし、サタンのあとについて行った者があるからです。」(Ⅰテモテ5:15新改訳)

このことばは前節からの続きで、若いやもめについての言及である。当時、夫に先立たれた女性はたちまち経済的苦境に陥ったので、教会は会員となっているやもめたちを扶助したのだが、問題も少なくなかった。▼パウロはここで、「サタンのあとについて行った」やもめもいる、と述べるが、具体的にどのようなことかは説明しない。だが前後のことばからみると、脱線して異端に走ったか、後ろ指を指されるような道徳上の問題を起こし、除名処分になったことを指すのかもしれない。▼やもめに限らず、一人のキリスト者が何十年にも及ぶ信仰生涯を終わりまで真っすぐ走り抜くには、いかに多く主の守りを必要とすることだろう。自分は大丈夫などと過信すべきではない。ペンテコステから三分の一世紀を過ぎると、最高の伝道者パウロの周囲でも、ヒメナオ、アレキサンデル(Ⅰテモテ1:20)、デマス(Ⅱテモテ4:10)などといった、「道を踏みはずす」人々が出てきたことがわかる。油断せず信仰の目をさましていよう。▼私は最近ある方からメールをいただいた。40年ほど前、洗礼を授けた兄弟である。今も夫婦で忠実に教会生活を守り、聖書を学び、ディボーションを欠かさないとの証しが、つつましい筆遣いで記されていて、思わず胸があつくなり、主に感謝の祈りをささげた。牧師の生涯でこれほど嬉しい便りはなく、いかなる苦労や涙も吹き飛んでしまう。この反対はガラテヤ書のパウロであろう。▼彼は信仰の道を踏みはずしたガラテヤの信徒たちを悲しみ、「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています」(ガラテヤ4:19同)と書き送った。霊の産室から痛みと苦痛にあえぐ妊婦パウロの息遣いが聞こえるようだ。いのちがけで産んだ使徒に、もういちど苦しみを与えるとは!・・・導いてくれた人を悲しませるべきではない。

 


朝の露 Ⅰテモテ4章 <聖霊の賜物>

2017-04-15 | Ⅰテモテ

つつじ「長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。」(Ⅰテモテ4:14新改訳)

私が洗礼を受けたとき、司式者は、「イエス・キリストの名によりてバプテスマを受けよ、然らば聖霊の賜物を受けん」(使徒2:38文語訳)を引用して短く勧め、祈り、洗礼を授けてくださった。▼その時から半世紀、私は聖霊が内住されて今日に至ったことを露ほども疑ったことはない。思えばふしぎである。おなじように、テモテに臨んだご聖霊は、教会を指導し、また特にみことばを解き明かすという説教の賜物を与えられたのだろう。▼牧師が説教するというのは、聖書を学ぶことを含むのはもちろんだが、それ以上のものである。御霊がその人を牧会者、説教者として立てるのでなければ、どんなに自分の力で努力しても、絶対的に「何かが足りない」という状態になる。そして聞く者はそれに気づく。▼昔も今も、教会は規模の大小にかかわらず御霊の支配する世界、言葉に表せない、一種言いようのない敬虔さに満ちた世界である。私に洗礼を授けてくださった先生はよく言われた。「教会は、御霊が手をお引きになったら、すべてが終わりである」と。▼住居にとり、新鮮な空気は欠かせず、それには換気が必要だ。御霊という「霊の風」が自由に吹いてくださる教会は生き生きとし、止まった教会は淀み、腐敗していく。原因は不従順の罪であり、隠せる罪である場合が多い。「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻もしめされなかった」(Ⅰサムエル3:1新改訳)とあるが、その原因はイスラエルの霊的中心、神の幕屋で、祭司が罪を犯していたからであった。すなわち、祭司エリと二人の息子ホフニとピネハスである。そのため、国中に重苦しく、沈滞した空気が満ち、何をやってもうまくいかなかったのである。私たちも恐れおののいて神の前にひれ伏し、原因を示していただき、悔い改めて出直すべきではないだろうか。

 


朝の露 Ⅰテモテ3章 <監督と執事>

2017-04-14 | Ⅰテモテ

ベニバナマンサク「また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。」(Ⅰテモテ3:6新改訳)

この章では監督、執事など教会指導者の資格について述べられている。キリスト教会はこの世でもっとも尊い集まりであり、その世話をする立場の重要性はいわずもがな、だ。指導者にふさわしい条件は、夫婦生活に正しく、謙虚で節制心があり、温和で金銭欲もなく、それでいて威厳があり、家庭で子どもたちから慕われ尊敬されている、というものだった。▼大切なのは、監督も執事も条件に「ひとりの妻の夫である」と明記されていることであろう。旧約時代には複数の妻を持つことが容認されていたのに、教会はそれが決して好ましいことではないと認識していたことがわかる。アブラハムとサラ、ハガルの葛藤、ヤコブの妻レアとラケルの争いなどをみれば、複数の妻を持つことがいかに悲劇を生むかは、すでにあきらかだったからである。これらに正しく対処し、家庭や一族を治めていた範として、エルサレム教会最初の執事に選ばれたピリポ、異邦人初の信仰者コルネリオなどの姿が浮かび上がってくる。▼また、もっとも警戒されたのは高慢だった。高慢は罪の最奥部にひそむ邪悪性である。神に用いられれば用いられるほど、高慢と隣り合わせになり、滅びに落ちる危険性が増す。この手紙を記した大使徒パウロでさえ、高ぶりの小さな芽も出ないよう、からだに一つのトゲ(何らかの欠陥)を神から与えられ、死ぬまで過ごした。その彼が、キリスト者といえど高慢になれば「悪魔と同じさばきを受ける」と表現しているのは強烈である。なぜなら、悪魔のさばき以上に厳しいさばきはあり得ないからだ。▼教会が組織体として地上に存在する以上、指導者や治める者が必要であることはもちろんである。私たちは自分の属する教会で、指導者として選ばれた人たちが高慢という誘惑から守られ、最後まで謙遜、謹厳、率直に務めを果たせるように、心を合わせて祈らなければならない。