しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 Ⅰテモテ2章 <真理を知る>

2019-10-12 | Ⅰテモテ

コチョウラン 白「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」(Ⅰテモテ2:4新改訳)

ローマ総督ピラトは、自分の前に引き出された主イエスに、「真理とは何なのか?」と質問した。それは主が、「わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います」(ヨハネ18:37同)と言われたからである。▼この世の高位高官、王や支配者たちは、ある意味でもっとも不幸な人々といえよう。なぜなら、彼らは自己の高い地位や権力に満足し、自分は他の者たちより幸福だと思い込んでいるからだ。その上、それらの保全を目指して絶えず陰湿な権力争いを演じ、生涯を費やしており、真理を知ることによってもたらされる本当の幸福から最も遠いところに「心が幽閉されたまま」一生を終える。そして永遠の滅びへ落ちていくからである。▼それゆえ、彼らの実情を知っていたパウロは、本章冒頭で、「何よりもまず・・・王たちと高い地位にあるすべての人のために」とりなし、祈るように勧めたわけである。私たちも、国の為政者や雲上びとと言われている人たちのため、力をこめて祈ろうではないか。◆パウロは4節に引き続き、5節で「神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです」と告白する。このお方こそ完全な神であると同時に、完全な人であられる。このふしぎさに心の目が開かれない限り、救いにあずかることはできない。すなわち真理を知ったことにはならない。世の宗教では、偉人や聖者を神と人のあいだに立てたり、聖母や教皇を立てるが、聖書は人となって世に来られたお方以外を決して仲介者と認めていない。◆ピラトはローマ帝国の支配者階級に属するひとりとして、「わたしは真理である」と仰せられたお方の真正面に、それも1mに満たない距離で立った。しかし彼はわからなかっし、見えなかった。その結果、「ユダヤ人の王イエス」と揶揄する罪票を書き、十字架につけたのである。「父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない」(ヨハネ6:65同)と仰せになった主のおことばの持つ無限の厳粛さを思わずにいられようか。◆その数時間後、反対の事が起こった。主イエスの正面に立っていた百人隊長は、その死の瞬間を見て、「この方は本当に神の子であった」(マルコ15:39同)と言ったのである。