しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <救いがこの家に>

2023-07-14 | ルカ
「イエスは彼に言われた。『今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜(さが)して救うために来たのです。』」(ルカ19:9,10新改訳)

主イエスに声をかけられたとき、ザアカイの心に変化が起きた。すなわち、彼は財産の半分を貧しい人たちに施(ほどこ)すだけでなく、不正な手段で得た金を四倍にして返す、と主に約束したのである。▼この変化から、それまで彼が味わってきた「心の闇(やみ)」が、底知れない深さを持っていた事実をわれわれは知る。むろん、原因はエリコの人々からつまはじきにされていたことにあったが、それだけではなかった。すなわち、「神に愛されている事実を知らない」ことから来る闇の深さ、それが彼の生涯を厚(あつ)くおおっていたのだ。▼主イエスはその暗黒のただ中にお入りになった。「今日、わたしはあなたの家に泊まることにしているから」との一声によって・・。神に選ばれ、救いに定められている人は、ザアカイのように主のひと言葉で救われる。私もそのとおりだった。世界の始まる前から、名前をいのちの書に記された人はなんと幸いであろうか(→エペソ1:4)。▼このできごとが際立(きわだ)たたせているもうひとつの事実は、エリコの人々が持っていた「闇の深さ」ではないだろうか。つまり、「あの人(つまり主イエス)は罪びとのところに行って客となった」と、軽蔑(けいべつ)と非難(ひなん)の目で主とザアカイを見つめたのである。彼らの心を支配していた「きよいということに対する傲慢(ごうまん)な考え方、差別(さべつ)とさばきの心理、その罪深さ」が神をどれだけ悲しませているかがわからなかったのだ。▼ルカ福音書は失われている人間に対して、神がいかに痛み、御自身のところに帰って来るのを待っているか、その真相を描く点において、かぎりない愛のまなざしを持っている。そしてそのことを感じない冷たさと高ぶりに占領された人間の持つ闇、それに対するするどいまなざしも・・・。この闇は差別の厚い壁となってパウロの前にたちはだかり、その異邦人伝道(世界宣教)を妨害し続けた。さらに今もしぶとく生き残り、毒蛇のように姿を変容しつつ世界の人々が救い主のもとに来るのを邪魔している。


朝の露 <ほんものの信仰>

2023-07-08 | ルカ
「あなたがたに言いますが、神は彼らのため、速やかにさばきを行ってくださいます。だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」(ルカ18:8新改訳)

ここで主が言われる信仰とは、無慈悲(むじひ)な裁判官(さいばんかん)をして、「うるさくて仕方がないから、このやもめのため裁判をしてやろう」と言わしめたやもめの信仰である。彼はまずしいやもめの裁判をしてやっても一文(いちもん)の得(とく)にもならないので、ほうっておいたのだろう。しかし彼女がひっきりなしに彼のもとに来て請願(せいがん)し続けたため休むことができず、疲れはててしまった。そこで重い腰を上げたのだ。▼神が喜ばれる信仰とは、このようなものだと主は言われる。みことばの約束に立ち、決してあきらめず、しりぞかず、聞き入れてもらうまで叫び求める、これは神の真実性に対する絶対的な信仰がなければできない。私たち現代人は頭脳(ずのう)だけがかしこくなり、初めからみことばを疑(うたが)ってかかる。このような態度で主に近づくから、信仰の祈りは生まれるはずがない。したがって神の答えもないわけである。



朝の露 <同じことが>

2023-07-07 | ルカ
「ちょうど、ノアの日に起こったのと同じことが、人の子の日にも起こります。」(ルカ17:26新改訳)

本章後半に「同じ」という言葉が七回くり返されているのが印象的である。すなわち24節から始まり、26、28、30、31、34、35節と続いている。これは偶然(ぐうぜん)ではなく、主が私たちの心に深くきざみつけようと意図(いと)されたからにほかならない。▼それでは、何が同じように起きるのか。注意深く読んでみると、再臨と世の終わりには、人が二つに分けられる神の審判が「突如(とつじょ)として起きる」ということであろう。人々がまったく予想もしていないとき、審判は始まる。楽しく、満ち足りた日常の営みがいつまでも続くように思い、終わりの日など夢にも思っていないとき、突然、人々はふたつに分けられるであろう。▼なかよく交わり、働き、同じ場所で同じことをしていても、人々は天にあげられる者と、下のほろびに落ちていく者とに峻別(しゅんべつ)される。そこには「情状酌量(じょうじょうしゃくりょう)」の余地(よち)はまったくなく、あいまいな判断の入り込むすきもない。そのときほど、「情け容赦(ようしゃ)なく」との言葉がぴたりと当てはまるときは人類史上なかったし、今後もないだろう。だからこそ、すべての人は目をさまして地上生涯をおくらなければならないのである。


朝の露 <ある金持ちとラザロ>

2023-07-01 | ルカ
「その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。」(ルカ16:20,21新改訳)

これ以上あわれな光景を見つけるのはむずかしいであろう。自分のからだ一面にできたできものを、野良犬(のらいぬ)がなめに来ても追い払う力さえなかったラザロ・・。▼邸宅(ていたく)に住む大金持ちは、門前のラザロを見てもあわれみの心を持たず、宴会(えんかい)に明け暮れていたにちがいない。もし彼が、せめて食べ物のあまりでも与えていたら、ラザロは栄養失調(えいようしっちょう)と衰弱(すいじゃく)から救われ、金持ちもハデスに落ちることはなかったはずであった。▼神はこの二人を天から見つめておられた。そして定めの時が来て、ラザロはアブラハムのふところへ、金持ちは火の燃えるハデスに落とされた。主の話されたこの例話から、人の一生は神をおそれ、隣人(りんじん)を愛するかどうかのテストコースだとわかる。そこで私たちは、自分の気に入った人だけを「隣人」にしてはなるまい。金持ちにとり、自分の5人の兄弟と家族はたしかに隣人だったろう。だが門前の貧しい病者ラザロなどは、まったく眼中になかった。「迷惑な、そこに居て欲しくない病人」にすぎなかった。ところが、そのラザロこそ神御自身が金持ちの「隣人」として門前に置いた人だったのである。▼私たちが生涯で出会い、接するすべての人が、神の連れて来た隣人だったらどうするか。その問いをいつも自らに投げかける者でありたい。やがて人生コースの果てに、神の国という「永遠の入学テスト」が待ち受けているのだから。



朝の露 <死んでいたのが生き返り>

2023-06-30 | ルカ
「『この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。」(ルカ15:24新改訳)

この章は、いなくなっていた一匹の羊、失われた一枚の銀貨、放蕩息子と、三つの話からできていて、どれも主が語られたもの。▼三話に共通しているのは、「失われていたものが見つかったときの喜び」である。特に放蕩息子の例話では、弟息子が帰って来た時、父が「この息子は、死んでいたのが生き返った」と大喜びしていることだ。人のいのちが神の前から失われ、永遠のほろびに落ちていくことを、神がどれだけ悲しんでおられるか、という事実を、主は私たちに示された。▼パリサイ人や律法学者らは、主が罪深い人たちと交わるのを非難した。それは彼らにとり、汚れに染まることだった。彼らは人間のいのちが身分階級、環境などにまったく関係ないことを見失い、自分たちだけ救われればよいと考えていた。それが偽善と高ぶり・罪の本体である。主のおことばから、人が救われることの測り知れない重さをあらためて知らされる。▼もうひとつ教えられるのは、兄息子の不満と怒りについてだ。この兄の罪深さはひとことでいえば「親の心、子知らず」である。父が帰って来た弟息子をどれだけ嬉しく思っているか、兄はわかっていない。すべてが自分中心にしか考えられず、それゆえ、「父の扱いの不公平さ」が目につき、怒り心頭に発したのであった。まさに主イエスはパリサイ人たちに、それがあなたがたの罪深さなのだ、と教えようとされた。▼とはいっても、現代人は兄息子を笑えるだろうか?笑えないと思う。いまの社会を見よ。他者の不公平な行為と考えを怒り、その不当性を訴える叫びが世界に満ちている。それをする前に、自分がどれだけ自己中心にものごとを考えやすい者であるか、省察しようとしない。自分自身にその罪深さを見、神のまえにふるえおののく者となる、いま求められるのはそのことであろう。