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「あなたがたに言いますが、神は彼らのため、速やかにさばきを行ってくださいます。だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」(ルカ18:8新改訳)
ここで主が言われる信仰とは、無慈悲(むじひ)な裁判官(さいばんかん)をして、「うるさくて仕方がないから、このやもめのため裁判をしてやろう」と言わしめたやもめの信仰である。彼はまずしいやもめの裁判をしてやっても一文(いちもん)の得(とく)にもならないので、ほうっておいたのだろう。しかし彼女がひっきりなしに彼のもとに来て請願(せいがん)し続けたため休むことができず、疲れはててしまった。そこで重い腰を上げたのだ。▼神が喜ばれる信仰とは、このようなものだと主は言われる。みことばの約束に立ち、決してあきらめず、しりぞかず、聞き入れてもらうまで叫び求める、これは神の真実性に対する絶対的な信仰がなければできない。私たち現代人は頭脳(ずのう)だけがかしこくなり、初めからみことばを疑(うたが)ってかかる。このような態度で主に近づくから、信仰の祈りは生まれるはずがない。したがって神の答えもないわけである。