しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 <死んでいたのが生き返り>

2023-06-30 | ルカ
「『この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。」(ルカ15:24新改訳)

この章は、いなくなっていた一匹の羊、失われた一枚の銀貨、放蕩息子と、三つの話からできていて、どれも主が語られたもの。▼三話に共通しているのは、「失われていたものが見つかったときの喜び」である。特に放蕩息子の例話では、弟息子が帰って来た時、父が「この息子は、死んでいたのが生き返った」と大喜びしていることだ。人のいのちが神の前から失われ、永遠のほろびに落ちていくことを、神がどれだけ悲しんでおられるか、という事実を、主は私たちに示された。▼パリサイ人や律法学者らは、主が罪深い人たちと交わるのを非難した。それは彼らにとり、汚れに染まることだった。彼らは人間のいのちが身分階級、環境などにまったく関係ないことを見失い、自分たちだけ救われればよいと考えていた。それが偽善と高ぶり・罪の本体である。主のおことばから、人が救われることの測り知れない重さをあらためて知らされる。▼もうひとつ教えられるのは、兄息子の不満と怒りについてだ。この兄の罪深さはひとことでいえば「親の心、子知らず」である。父が帰って来た弟息子をどれだけ嬉しく思っているか、兄はわかっていない。すべてが自分中心にしか考えられず、それゆえ、「父の扱いの不公平さ」が目につき、怒り心頭に発したのであった。まさに主イエスはパリサイ人たちに、それがあなたがたの罪深さなのだ、と教えようとされた。▼とはいっても、現代人は兄息子を笑えるだろうか?笑えないと思う。いまの社会を見よ。他者の不公平な行為と考えを怒り、その不当性を訴える叫びが世界に満ちている。それをする前に、自分がどれだけ自己中心にものごとを考えやすい者であるか、省察しようとしない。自分自身にその罪深さを見、神のまえにふるえおののく者となる、いま求められるのはそのことであろう。