【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「フランドル」:呉服橋バス停付近の会話

2007-05-12 | ★東20系統(東京駅~錦糸町駅)
ここは、竹久夢二のデザインした品々の店「港屋絵草紙店」の跡地だってさ。
昔の人はこういう抒情的な絵にうっとりしたのよねえ。
大正浪漫を代表する画家だもんな。
私にとっては彼は「宵待草」の歌の作者だな。待ーてーど暮らせど来ーぬひーとを、よーいまーち草のやーるせーなさ。
お前は大正生まれか。
いい歌は何歳の女性にとってもいい歌なのよ。
しかし、この「宵待草」の歌詞って、フランス映画の「フランドル」の中で戦場に行った恋人デメステルを待ちわびる少女バルブの気持ちにぴったりだな。
そう来たか。でも、あの映画の中ではデメステルとバルブは恋人同士でも何でもないわよ。
フランドルってフランスの北部地方の土地の名前らしいが、あの寒々として何もない、退屈そのものの田舎じゃあ、いちゃつくくらいしかやることがないんだよな。若い男女が、愛で結ばれるというより、散歩の途中でちょっと道草しましたって感じで草むらにしけこんじゃうんだからな。でも、それだって恋人は恋人だろう。
バルブは別にデメステルじゃなくても、誰とだって簡単に寝ちゃうんだから、彼女にとってはデメステルは恋人でも何でもないのよ。
じゃあ、デメステルが戦場に行ったら何でバルブは狂い出すんだよ。恋人がいなくて寂しくて耐え切れないんじゃないのか。
とんでもない。デメステルが行った戦場といったらこれがまた、フランドル地方に輪をかけて荒涼とした土地。岩肌と砂漠しかない殺伐そのものの土地なんだから。敵の女性戦士を陵辱するくらいしかやることがない。これじゃあ、戦場に行く前とあまり変わらないじゃない。一見平和に見える土地も血まみれの戦場も実は同じ平面上にある。
つまり、バルブは、恋人がいなくて嘆いているんじゃなくて、そういう救いのない絶望的な世界全体を繊細に感じとって叫びをあげてるってことか。なんだか「バベル」みたいな話だな。バルブとバベルって発音も似てるしな。
少女バルブは「バベル」の菊地凛子みたいな役だってこと?
寝ることでしか、他人と繋がれないっていう意味ではな。
でも「バベル」は単純なことを世界的なスケールに拡大、複雑そうに見せることで大作感を出していたけど、「フランドル」はそれとは対極で、すべてをそぎ落として、単純なことを最小限の世界と登場人物で描き出すことで、かえってこの世界の本質をえぐり出すような映画になっているのよ。
じゃあ、この憂うべき絶望的な世界を救うのは何か。それも、実は同じような結論に至るんだけど、「バベル」が思い入れたっぷりなのに比べて、「フランドル」のほうはあっけないほど単純な見せ方をする。
身もふたもないようなね。
まったく、飾るということを知らない映画だよな。少しは観客のことを考えてくれてもいいんじゃないのか。
映し出される風景と同じで、寒々とした映画には間違いないわよね。
せめて、竹久夢二が描く美人画程度の色気があればなあ。
それじゃあ、別の映画になっちゃうわよ。

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呉服橋バス停



ふたりが乗ったのは、都バス<東20系統>
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「パラダイス・ナウ」:東京駅丸の内北口バス停付近の会話

2007-05-09 | ★東20系統(東京駅~錦糸町駅)

なに、この異様な模様は?
東京駅丸の内北口に立って、頭の上を見上げてみる。すると、こういう光景が広がるんだ。
さすが、東京駅。すいぶん凝った模様の天井ね。まるで、中近東かどこかにあるモスクの内部みたい。
中近東?イスラエルとかパレスチナとかか?
それはまた、ずいぶん物騒なところを例えに出したものね。イスラエルとパレスチナって、昔から紛争が絶えない仲なのよ。
毎日のように自爆攻撃が行われている。
自爆攻撃って、おなかに爆弾を巻いて、バスや人ごみのなかで自分もろとも多くの人たちを犠牲にする野蛮な自殺行為でしょ。何で止めないんだろう。
そういう単純な疑問を木っ端微塵に砕いてくれるのが、「パラダイス・ナウ」っていう映画だ。ああいう映画を観てしまうと、のんきに非難もできなくなってくる。
そうね。どこの世界にでもいそうな、ごく平凡なパレスチナの二人の若者が自爆攻撃を命ぜられる物語なんだけど・・・。
悩んだり苦しんだりしながらも一人は自爆に向かい、一人は思いとどまる。
でも、観ているうちに、どっちが正しくて、どっちが間違っているんだかわからなくなってくる。
イスラエルににらまれ、一生を限られた地域で自由もなく暮らすだけの、何の希望も展望も見えない鬱屈した日々が、彼らを自爆攻撃にかりたてていく。その心情が痛いほど伝わってくる。
自爆攻撃を肯定するわけではないけど、それ以外に現実を変える手段が何もないのよね、彼らには。
「敵は空から空爆するが、我々には自爆しか手段がないんだ」とつぶやくくらいしかできない。
普段は髪もぼさぼさでひげも伸ばし放題、よれよれの服に身を包んでいるのに、自爆に行くと決まったとたん、さっぱりした髪型になって結婚式みたいなパリッとしたスーツに身を包むんで、不謹慎にも笑っちゃったわ。
やくざの出入りみたいだが、まあ、彼らにとっては唯一の晴れ舞台とも言えるわけだ。
あれだけ息がつまる状況の中では、死ねば天国が待っていてくれる、自爆即ち天国なんだ、という考えにとらわれてしまうのも仕方がないことなのかしらね。
「パラダイス・ナウ」ってそういう意味なのか?だとしたら、なんだか救いがないな。
救いといえば、自爆攻撃のためにバスに乗ろうとしてたのに、幼い子どもを見て思いとどまるシーン。あそこはほっとしたわ。あれくらいの理性は持ち合わせているってことね。
理性と言うか、普通の感覚というか・・・。つまり、彼らも、しごくまともな人間なんだよ。
そういう彼らを追い詰めてしまう現実があるってことね、この世界には。
この天井のように重たい世界が彼らの頭の上には常にのしかかっているってことだ。
ちょっと強引な例えだけど、まあそういうことかしら。
彼らの頭の上に、青空が広がるのはいつなんだろうな。
うーん・・・。


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東京駅丸の内北口バス停



ふたりが乗ったのは、都バス<東20系統>
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虹01系統のバス停と16本の映画たち

2007-05-08 | ■通ったバス停、観た映画(一覧)

ふたりが乗ったのは、都バス<虹01系統>

桜の季節もあっと言う間に終わっちゃったな。
秒速5センチメートルというより、秒速5000メートルくらいの感じでね。
そして、ゴールデンウィークも終わっちゃたし・・・。
秒速1万メートルくらいの感じでね。
早く来ないかなあ、夏休み。
それまでは、観た映画の思い出にでも浸って過ごしましょう。
黄色い涙を流してな。

●浜松町駅:「松ヶ根乱射事件
⇒浜松町駅前:「ブラックブック
⇒海岸一丁目:「絶対の愛
⇒竹芝桟橋::「ホリデイ
⇒日の出桟橋:「ブラッド・ダイヤモンド
⇒芝浦埠頭駅入口:「オール・ザ・キングスメン
⇒お台場海浜公園駅:「檸檬のころ
⇒フジテレビ前:「東京タワー
⇒台場駅前:「ツォツィ
⇒船の科学館駅前:「ロッキー・ザ・ファイナル
⇒日本科学未来館前:「神童
⇒東京湾合同庁舎前:「クィーン
⇒テレコムセンター駅前:「バベル
⇒パレットタウン前:「秒速5センチメートル
⇒フェリー埠頭入口:「黄色い涙
⇒東京ビッグサイト:「あしたの私のつくり方


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「あしたの私のつくり方」:東京ビッグサイトバス停付近の会話

2007-05-05 | ★虹01系統(浜松町駅~ビッグサイト)

なんだ、あそこにいるやつらは。コスプレか?
ビッグサイトでアニメフェアとかやると、集まってくるのよ、ああいう子たちが。
しばし、現実の自分とは違う人格になって日ごろのうっぷんをはらすってやつか。
まあ、そんなところね。
それって、映画の「あしたの私のつくり方」と根は同じじゃないのか。
まあ、そうかもしれないわね。「あしたの私のつくり方」はいじめにあっているヒナという少女が、これは本当の自分じゃなくて、いじめられる役を演じているんだと思いこむところから始まる物語だもんね。
そして、コトリという小学校時代の友だちが、高校生になったヒナのところへメールを送ってくる。そこには本当の自分を隠して友だちやボーイフレンドとうまくやっていくヒントがいろいろ書いてある。
その通りに行動して周囲の人々から愛されるようになったヒナがある日、これは本当の自分じゃないと気づく。自分は、ただ愛される役柄を演じているだけで、本当の自分じゃないと。
そして、少女はニセモノの自分とホンモノの自分の間で悩んだ末、精神に変調をきたし、周囲の人々を巻きこんでとんでもない事件を起こす・・・。
待って、待って。映画の中の少女は、精神に変調をきたしたり、とんでもない事件を起こしたりしないわよ。
いや、これは俺の捏造だった。しかし、本当はそれくらいドラマチックに展開できる物語じゃないかと思ったものだから。
でも、監督が「病院で死ぬということ」や「トニー滝谷」の市川準よ。そんな劇的な展開になるはずないじゃないの。一人称のモノローグとさりげない風景で話を静かに語っていく作風は、この映画でもいままでとなんら変わりがないわ。
そうそう。実際にはもっと穏やかな形でエンドマークに至る。でも、穏やか過ぎて、なんか優等生の映画を観てるみたいな印象になってしまった。
ヒナを演じている前田敦子も一生懸命演技しているのは好感が持てるんだけど、枠から飛び出るような演技じゃなかった。彼女にはちょっと難しい役柄だったかしら。
あ、前田敦子?彼女はかわいかったさ。
そりゃ、AKB48のメンバーだもんね。モー娘系のかわいらしさはあるわよ。でも、偏見を承知で言うと、モー娘みたいな匂いがプンプンする少女が、太宰治のファンの役をやるなんて無謀じゃない?
いいじゃないか、ああいうモー娘系の子が太宰治のファンなんて我々の常識を超えるが、その落差がもう胸キュンものだ。
それにしたって、小学6年生で太宰治にかぶれる女の子の役なのよ。偏見を承知で言うと、もっと知的な雰囲気があってしかるべきじゃないの?
まあ、八歩譲って言えば、ヒナ役の前田敦子より彼女にメールを送るコトリ役の成海璃子のほうが知的な感じがしたのは事実だな。
八歩じゃないわ、百歩でしょ。
あ、知的な俺としたことがしまった。猿のえさも木から落ちるってところだな。
意味わかんない。
この映画は、意味がよくわかる。誰かを演じているのも自分、演じていないのも自分。ありのままの自分を愛せってことだろ。しかし、それが結論なんて、なんかあたりまえ過ぎないか。
なに言ってるのよ。それこそ普遍の真実じゃない。ティーンエージャーの諸君、よく覚えておきなさい、って言うべきところよ。ただ、前田敦子が言うから説得力に欠けるだけなのよ。
うーん。前田敦子はかわいいんだけどなあ。もちろん、成海璃子もいつもながらかわいかったし。
かわいいだけじゃ生きていけないのよ、この世の中は。
お前が言っても、それこそ説得力に欠けるけどな。
だったら、コスプレでもしてみる、あそこにいる子たちみたいに?
か、勘弁してくれ。


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ふたりが乗ったのは、都バス<虹01系統>
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「黄色い涙」:フェリー埠頭入口バス停付近の会話

2007-05-03 | ★虹01系統(浜松町駅~ビッグサイト)

「つどい橋」なんて、古風な名前の橋だな。
たくさんの恋人たちが集うようにってことかしら。
恋人たちだけじゃないだろう。若者たちにはいろいろな形の集いがあるはずだ。偶然出会って、ひと夏を一緒に過ごして秋になったら別れて行く・・・。それは恋人たちに限らない。男たちにだってじゅうぶんあり得ることだ。
そうね、映画の「黄色い涙」みたいな出会いもあるのよね。
漫画家と小説家とミュージシャンと画家のひと夏の共同生活の物語。といっても、みんな一流の芸術家になりたいと願っているだけで、現実は一円の金もなく、うだうだとした毎日を過ごしているだけだ。若者特有の根拠のない自信だけを抱えている。
なんとか稼いでいるのは、漫画家だけだもんね。あとの連中は「芸術家は芸術以外で金を稼いじゃいけない」とかうそぶいて、でも金が稼げるほどの才能もなく、偶然知り合った漫画家のボロアパートにぐだぐだと居候しているだけ。
そのうだつのあがらない1960年代の連中を、いまをときめくアイドルグループの嵐が演じるんだから見ものだよな。
そりゃあ、見ものよ。
おそらく、この映画に思いこみを入れて観る人間には、2種類いる。
2種類?
原作の永島慎二の漫画のファンか、嵐のファンか、どっちかだ。
で、あなたはどっちなの?
もちろん、永島慎二ファンだ。
そうそう。この映画の原作って永島慎二の漫画なんだってね。でも、彼ってそんなにファンが多いの?
隠れ永島って言ってな、人前ではそんなことおくびにも出さないけど、彼の漫画ならほとんど持っているっていう熱烈なファンは結構多いはずだ。
どうしてわかるの?
俺がそのひとりだから。
うそ!
いつか見せたろう、「漫画家残酷物語」、「若者たち」、「フーテン」・・・。
ああ、あの昭和風味の地味なコミック。
地味と言うな。コミックと言うな。時代に流されない本物の青春漫画と言え。自分の悩みや思いを素直に吐露した漫画は、私小説ならぬ私漫画として、当時の若者たちの共感を呼び、一世を風靡したもんだ。
一部の人たちの間ででしょ。
そんなことはない。
とか言って、あなたより上の世代の人たちのことじゃない。
まあな。彼の漫画で一番有名なのは「柔道一直線」なんだが、ほんとうはそういう流行を追うような漫画じゃなくて純粋な児童漫画を描きたかった永島慎二は途中で降板、以後、大衆受けしそうなヒット作を意識的に描かなくなってしまった。自分の気持ちに正直な気骨のある漫画家なんだ。
映画の中でもそういうエピソードがあったわね。
二宮和也が演じる漫画家には、永島慎二自身の姿が色濃く投影されている。
居候に転がり込まれた漫画家を、いつもの「しょうがないなあ」という顔つきでひょうひょうと演じていてよかったわ。昭和の話が似合う俳優になって来たわね。
ははあ、おまえはこの映画に思いこみを入れて観る2種類の人間のうちの、嵐のファンのほうだな。
どうしてわかるの?
目に星が見えた。
うそ!
じゃあ、小説家の役の櫻井翔はどうだった?
関西弁といい、丸めがねといい、かわいいとしか形容のしようがないわ。桃のようなお尻まで拝めるんだから、桜井翔様様よ。
うーん、なんか感想がおばさん化してるぞ。ミュージシャン役の相葉雅紀は?
あの帽子に半ズボン。もうサイコウ。ミュージシャン志望のくせにのど自慢では鐘ひとつだなんて、泣いていいんだか笑っていいんだか、わからないくらいだわ。しかもラブシーンまであるんだから。
とは言っても、嵐ファンの手前、濃厚なラブシーンはできなかったけどな。60年代風の主題歌はよかった。あと、画家の大野智は?
ちょっと頭の弱い女につかまって結婚の約束しちゃうのよね。その抜けてる感じ、困った表情がまた憎めない。
唯一、漫画家の居候じゃない酒屋役の松本潤は?
テレビじゃいつも、目からきらきら星の束を飛ばしてる松本潤が、東北出のいも兄ちゃんを演じるんだからこれこそ見ものでしょう。しかも、酒屋のエプロンがすっかり似合って、見違えるように純朴な役。
いも兄ちゃんと言えば、みんな冴えない、田舎出のいも兄ちゃんの役だったな。その役を誰ひとりとして気負うことなく、屈託なく演じているからたいしたもんだと思ったよ。嵐の人の良さが画面全体から感じられた。
ただ、ああいう、鍋でごはんを炊くような貧乏生活ってこの頃ないから、最近の恵まれた十代のファンが見て共感する映画なのかどうか、よくわからないわね。
きょうの晩ご飯のために扇風機を質屋に入れるとか、かつどん一つ食うだけであんなに感激する生活なんてな。昔はよくあったんだけどな。
あのかつどん、おいしそうだったけどなあ。
彼ら貧乏な若者にとっては、三ツ星レストランの有名シェフのフランス料理よりずっとうまかったと思うぜ。
そんな、楽しいんだかつらいんだかよくわからない共同生活もいつか終わり、結局漫画家以外は芸術家の道をあきらめ堅気な職業についていく・・・。
祭りの季節は終わったってことだよ。でも、たった一時期でも若い頃に夢を追った季節があったっていうのは、無駄じゃないと思うぜ。
思い出があれば長い人生も生きていけるわ。
俺には永島慎二、おまえには嵐の思い出がな。
そしてまた、どこかで新たな出会いがあるのよ。
つどい橋でか?
さあ、それはどうかしら。


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