【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「あしたの私のつくり方」:東京ビッグサイトバス停付近の会話

2007-05-05 | ★虹01系統(浜松町駅~ビッグサイト)

なんだ、あそこにいるやつらは。コスプレか?
ビッグサイトでアニメフェアとかやると、集まってくるのよ、ああいう子たちが。
しばし、現実の自分とは違う人格になって日ごろのうっぷんをはらすってやつか。
まあ、そんなところね。
それって、映画の「あしたの私のつくり方」と根は同じじゃないのか。
まあ、そうかもしれないわね。「あしたの私のつくり方」はいじめにあっているヒナという少女が、これは本当の自分じゃなくて、いじめられる役を演じているんだと思いこむところから始まる物語だもんね。
そして、コトリという小学校時代の友だちが、高校生になったヒナのところへメールを送ってくる。そこには本当の自分を隠して友だちやボーイフレンドとうまくやっていくヒントがいろいろ書いてある。
その通りに行動して周囲の人々から愛されるようになったヒナがある日、これは本当の自分じゃないと気づく。自分は、ただ愛される役柄を演じているだけで、本当の自分じゃないと。
そして、少女はニセモノの自分とホンモノの自分の間で悩んだ末、精神に変調をきたし、周囲の人々を巻きこんでとんでもない事件を起こす・・・。
待って、待って。映画の中の少女は、精神に変調をきたしたり、とんでもない事件を起こしたりしないわよ。
いや、これは俺の捏造だった。しかし、本当はそれくらいドラマチックに展開できる物語じゃないかと思ったものだから。
でも、監督が「病院で死ぬということ」や「トニー滝谷」の市川準よ。そんな劇的な展開になるはずないじゃないの。一人称のモノローグとさりげない風景で話を静かに語っていく作風は、この映画でもいままでとなんら変わりがないわ。
そうそう。実際にはもっと穏やかな形でエンドマークに至る。でも、穏やか過ぎて、なんか優等生の映画を観てるみたいな印象になってしまった。
ヒナを演じている前田敦子も一生懸命演技しているのは好感が持てるんだけど、枠から飛び出るような演技じゃなかった。彼女にはちょっと難しい役柄だったかしら。
あ、前田敦子?彼女はかわいかったさ。
そりゃ、AKB48のメンバーだもんね。モー娘系のかわいらしさはあるわよ。でも、偏見を承知で言うと、モー娘みたいな匂いがプンプンする少女が、太宰治のファンの役をやるなんて無謀じゃない?
いいじゃないか、ああいうモー娘系の子が太宰治のファンなんて我々の常識を超えるが、その落差がもう胸キュンものだ。
それにしたって、小学6年生で太宰治にかぶれる女の子の役なのよ。偏見を承知で言うと、もっと知的な雰囲気があってしかるべきじゃないの?
まあ、八歩譲って言えば、ヒナ役の前田敦子より彼女にメールを送るコトリ役の成海璃子のほうが知的な感じがしたのは事実だな。
八歩じゃないわ、百歩でしょ。
あ、知的な俺としたことがしまった。猿のえさも木から落ちるってところだな。
意味わかんない。
この映画は、意味がよくわかる。誰かを演じているのも自分、演じていないのも自分。ありのままの自分を愛せってことだろ。しかし、それが結論なんて、なんかあたりまえ過ぎないか。
なに言ってるのよ。それこそ普遍の真実じゃない。ティーンエージャーの諸君、よく覚えておきなさい、って言うべきところよ。ただ、前田敦子が言うから説得力に欠けるだけなのよ。
うーん。前田敦子はかわいいんだけどなあ。もちろん、成海璃子もいつもながらかわいかったし。
かわいいだけじゃ生きていけないのよ、この世の中は。
お前が言っても、それこそ説得力に欠けるけどな。
だったら、コスプレでもしてみる、あそこにいる子たちみたいに?
か、勘弁してくれ。


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ふたりが乗ったのは、都バス<虹01系統>
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