Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

新国立劇場「夜明けの寄り鯨」

2022年12月18日 | 演劇
 演劇「夜明けの寄り鯨」を観た。作は横山拓也、演出は大澤遊。ともに40代の方のようだ。新国立劇場の演劇部門が今シーズン立ち上げた【未来につなぐもの】というタイトル=コンセプトの企画の第二作に当たる。第一作は去る11月に上演した「私の一ヶ月」(作は須貝英、演出は稲葉賀恵)。わたしはそれを観たので、第二作の「夜明けの寄り鯨」も観てみようと思った。

 主人公は40代の女性の三桑真知子。三桑はある海辺の町を訪れる。その町は三桑がまだ大学生のころに(25年前だ)友人たちと訪れた町だ。楽しいはずの旅行だったが、ある出来事が起こり、友人たちのひとりのヤマモトヒロシが姿を消す。その後ヤマモトは行方不明になった。生きているのか、死んでいるのか。三桑はヤマモトが姿を消したのは自分が発した言葉のためではないかと思い悩んでいる。それが気になるので、40代になったいま、再びその町を訪れたのだ。

 三桑が発した言葉とはLGBTQにかんする言葉だ。三桑が大学生のころはLGBTQにたいする一般の理解は低かった。LGBTQという言葉すらなかった。そのような時代的制約のもとではあったが、三桑がヤマモトにある言葉を発し、その言葉が原因でヤマモトが姿を消したのかもしれない。三桑はヤマモトに会って、もしそうなら謝りたいと思うのだが。

 本作品の場合はLGBTQにかんする言葉が契機だが、もっと広げて考えれば、だれしもだれかを何かで傷付けた記憶があるのではないか。取り返しのつかないことをした苦い記憶は、だれでも胸の奥に秘めているのでは。そんな苦い記憶から目をそらさずに、向き合って生きる生き方の象徴として、本作品は観ることができる。

 一方、三桑が訪れる海辺の町は、かつては捕鯨でにぎわった町だ。だが、捕鯨反対運動が盛んになって以来、町は寂れた。本作品では捕鯨の是非にかんする議論が起きる。だが、残念ながら、その場面の言葉は類型的だ。もっと独自の言葉がほしい。

 三桑を演じたのは小島聖だ。抑制された繊細な演技だった。また演技とは別のことだが、まっすぐな立ち姿が美しかった。さすがは役者だ。

 ストーリーは三桑が町を再訪する「現在」と、三桑が大学生のときに訪れた「過去」とのあいだを行き来する。その転換がスムーズだ。大澤遊の演出が成功しているのだろう。また場所が海辺の町なので、舞台には海が、そして(ストーリーの展開にしたがって)雨が描写される。海も雨も水だ。水の描き方が美しい。池田ともゆきの美術、鷲崎淳一郎の照明、鈴木大介の映像の総合力だろう。
(2022.12.11.新国立劇場小劇場)

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