Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

新国立劇場「終わりよければすべてよし」

2023年10月25日 | 演劇
 新国立劇場でシェイクスピアの「尺には尺を」と「終わりよければすべてよし」の交互上演が始まった。2009年の「ヘンリー六世」三部作の一挙上演以来続いたシェイクスピアの史劇シリーズが終了し、次の展開として、問題作といわれる「尺には尺を」と「終わりよければすべてよし」が取り上げられたわけだ。

 問題作とは悲劇とも喜劇ともつかない(それらの範疇からはみ出す)作品をいう。19世紀末にイギリスのある評論家が「尺には尺を」と「終わりよければすべてよし」と「トロイラスとクレシダ」と、それらに加えて「ハムレット」の4作をそう分類した。わたしには「ハムレット」を他の3作と同列に論じることはピンとこないが、「ハムレット」以外の3作が同じように奇妙な作品であることは同感だ。

 なぜ奇妙かというと(それは本来は個々の作品に即して語らなければならないが、あえて一言でいえば)登場人物の考えることがてんでんばらばらな点だ。比喩的にいえば、各人のベクトルが別々な方向に向いている。だが、結論を先にいうようだが、それが現実ではないか。結果的に作品は、腹の底から笑う喜劇にもならなければ、カタストロフィをおぼえる悲劇にもならずに、奇妙に現代的だ。

 まず「終わりよければすべてよし」を観た。青年貴族のバートラムはハンサムだ。当家で養育されている孤児のヘレナは、ひそかにバートラムに思いを寄せる。ヘレナは医師であった亡父の処方箋により、フランス国王の難病を治す。フランス国王は褒美にヘレナとバートラムの結婚を許す。だが、身分の低いヘレナを嫌うバートラムは逃げ出す。ヘレナはバートラムを獲得できるか‥という芝居。

 フランス国王がバートラムにヘレナとの結婚を強要するのはパワハラといえる。バートラムにつきまとうヘレナはストーカーに近い。バートラムが逃亡先でダイアナという娘に言い寄るのはセクハラだ。そんな諸点が現代的だ。一方、ヘレナを他の女性たち(バートラムの母親とダイアナとダイアナの母親)が助ける。シスターフッドだ。本作品はフェミニズム演劇としても鑑賞できる。

 ヘレナを演じた中嶋朋子がみずみずしい名演だ。バートラムの浦井健治は軽薄な青年貴族を演じ、フランス国王の岡本健一は癖のある国王を演じて、それぞれ適役だ。ダイアナを演じたソニンは最終場面を引き締めた。バートラムの従者・ペーローレスを演じた亀田佳明は喜劇的な可笑しさは物足りなかったが(亀田佳明にかぎらずどの役者も喜劇的な演技は大げさで、わざとらしかった)、化けの皮がはがれたときの「人間だれでも、生きる場所、暮らす手だてはあるのだ」という台詞は会場をしんみりさせた。
(2023.10.24.新国立劇場中劇場)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« カーチュン・ウォン/日本フ... | トップ | 新国立劇場「尺には尺を」 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

演劇」カテゴリの最新記事