東京二期会がチャイコフスキーのオペラ「エフゲニー・オネーギン」を上演した。呼び物はペーター・コンヴィチュニーの演出だ。もともとは1995年にライプツィッヒで上演された演出プランで、その後ヨーロッパの他の都市でも上演されたという。借り物だからといって軽くみてはいけない。コンヴィチュニー自身が来日して、稽古をつけている。私がみたのは最終日だが、紛れもない活気のあるコンヴィチュニーの舞台になっていた。
東京二期会がコンヴィチュニーを招くのはこれが二度目だ。前回は2006年、モーツァルトのオペラ「皇帝ティトの慈悲」だった。このときは、日本のオペラ公演としては破格の舞台だったが、まだ動作に恥ずかしさが残っていた。それが今回は、完全とはいえないまでも、かなり払しょくされていた。
特筆すべきは、最終場面のオネーギン(与那城敬)とタチアーナ(大隅智佳子)だ。日本人の歌手があれほど迫真的な愛の場面を演じたのを私は今までみたことがない。愛とは相手の身も心も自分のものにしたいという情熱だが、実際にはそれが叶えられない苦しみのことだと感じた。
コンヴィチュニーの演出は、タチアーナとオネーギンの苦しみに焦点をあてる。その象徴的な場面は、二つのバレエの場面だ。第二幕冒頭のワルツの場面では、オネーギンに返却された愛の手紙をだいて、苦しみ身もだえするタチアーナを、招待客たちが囲み、フランス人トリケが、タチアーナに歌を捧げながら、手紙を奪ってしまう。なんと残酷なことか。私はこのあたりから琴線が震えっぱなしだった。
第三幕冒頭のポロネーズの場面では、舞台は空だ。いるのはオネーギンと、決闘で殺した親友レンスキーの死体だけ。後悔し、苦しむオネーギンは、舞台をのたうち回り、あげくの果てにレンスキーの死体と踊る。しかしレンスキーが生き返るはずもなく、すべては空しい。
通常は華やかなバレエの場面が、このように寒々しく演出される。それはブレヒト流の異化効果の応用であり、このオペラの本質を問うためだ。
その他、ディテールの卓抜さや、音楽の勘所と舞台上の動きの一致など、感心した点は多々あるが、煩瑣になるので省略する。
歌手は前述の二人を筆頭に、皆よかった。ただ、タチアーナの妹でレンスキーの許嫁のオルガ役の歌手だけは、声よりも容姿で貢献していた。
オーケストラは澄んだハーモニーをきかせていた。指揮者のアレクサンドル・アニシモフはロシアの節回しを知っている指揮者だ。
ところで、会場で買い求めたプログラムをみていて、思わずわが目を疑った。某音楽評論家が次のようにかいていたからだ。「ところでオペラでもバレエでも女性を描くことが得意だったチャイコフスキーが、プーシキンの原作とはニュアンスを変え、オペラではオネーギンを冷笑気味に扱い、むしろタチアーナに同情を寄せて主人公扱いにしていることは、広く指摘されるとおり。」
プーシキンの原作は、私にはそうは思えない。実は今回、事前にプーシキンの原作を読んでみた。そこでわかったことは、プーシキンの共感は圧倒的にタチアーナにあるということだ。約8年の長期にわたって執筆された作品だが、当初はオネーギンに興味があったものの、途中からオネーギンの底の浅さがわかり、タチアーナにひかれていく。オネーギンにたいする冷淡さは、チャイコフスキー以上だ。
もう一つ、原作を読んで感じたことがある。文学は時の流れの表現が可能だが、音楽は苦手だということだ。タチアーナがオネーギンに出会って、その晩手紙をかくが、返事が来ない。返事を待つ数日間の焦燥が、音楽では表現できない。あるいは、レンスキーを射殺したオネーギンは外国へ逃亡する。その後サンクトペテルブルクに戻るまでの数年間が、表現できない。
一方、原作ではオネーギン以上に冷淡に扱われているレンスキーが、オペラでは3曲のアリアを与えられている。これも音楽と文学の差異を示しているのだろう。
(2008.09.15.東京文化会館)
東京二期会がコンヴィチュニーを招くのはこれが二度目だ。前回は2006年、モーツァルトのオペラ「皇帝ティトの慈悲」だった。このときは、日本のオペラ公演としては破格の舞台だったが、まだ動作に恥ずかしさが残っていた。それが今回は、完全とはいえないまでも、かなり払しょくされていた。
特筆すべきは、最終場面のオネーギン(与那城敬)とタチアーナ(大隅智佳子)だ。日本人の歌手があれほど迫真的な愛の場面を演じたのを私は今までみたことがない。愛とは相手の身も心も自分のものにしたいという情熱だが、実際にはそれが叶えられない苦しみのことだと感じた。
コンヴィチュニーの演出は、タチアーナとオネーギンの苦しみに焦点をあてる。その象徴的な場面は、二つのバレエの場面だ。第二幕冒頭のワルツの場面では、オネーギンに返却された愛の手紙をだいて、苦しみ身もだえするタチアーナを、招待客たちが囲み、フランス人トリケが、タチアーナに歌を捧げながら、手紙を奪ってしまう。なんと残酷なことか。私はこのあたりから琴線が震えっぱなしだった。
第三幕冒頭のポロネーズの場面では、舞台は空だ。いるのはオネーギンと、決闘で殺した親友レンスキーの死体だけ。後悔し、苦しむオネーギンは、舞台をのたうち回り、あげくの果てにレンスキーの死体と踊る。しかしレンスキーが生き返るはずもなく、すべては空しい。
通常は華やかなバレエの場面が、このように寒々しく演出される。それはブレヒト流の異化効果の応用であり、このオペラの本質を問うためだ。
その他、ディテールの卓抜さや、音楽の勘所と舞台上の動きの一致など、感心した点は多々あるが、煩瑣になるので省略する。
歌手は前述の二人を筆頭に、皆よかった。ただ、タチアーナの妹でレンスキーの許嫁のオルガ役の歌手だけは、声よりも容姿で貢献していた。
オーケストラは澄んだハーモニーをきかせていた。指揮者のアレクサンドル・アニシモフはロシアの節回しを知っている指揮者だ。
ところで、会場で買い求めたプログラムをみていて、思わずわが目を疑った。某音楽評論家が次のようにかいていたからだ。「ところでオペラでもバレエでも女性を描くことが得意だったチャイコフスキーが、プーシキンの原作とはニュアンスを変え、オペラではオネーギンを冷笑気味に扱い、むしろタチアーナに同情を寄せて主人公扱いにしていることは、広く指摘されるとおり。」
プーシキンの原作は、私にはそうは思えない。実は今回、事前にプーシキンの原作を読んでみた。そこでわかったことは、プーシキンの共感は圧倒的にタチアーナにあるということだ。約8年の長期にわたって執筆された作品だが、当初はオネーギンに興味があったものの、途中からオネーギンの底の浅さがわかり、タチアーナにひかれていく。オネーギンにたいする冷淡さは、チャイコフスキー以上だ。
もう一つ、原作を読んで感じたことがある。文学は時の流れの表現が可能だが、音楽は苦手だということだ。タチアーナがオネーギンに出会って、その晩手紙をかくが、返事が来ない。返事を待つ数日間の焦燥が、音楽では表現できない。あるいは、レンスキーを射殺したオネーギンは外国へ逃亡する。その後サンクトペテルブルクに戻るまでの数年間が、表現できない。
一方、原作ではオネーギン以上に冷淡に扱われているレンスキーが、オペラでは3曲のアリアを与えられている。これも音楽と文学の差異を示しているのだろう。
(2008.09.15.東京文化会館)
チャイコフスキーの「オネーゲン」も知りませんでしたが、プーシキンの原作を読んでみたくなりました。
現在マイブームで「こんにゃく座のオペラ」にはまっています。
時の流れの表現が、音楽は苦手という件に関しては、こんにゃく座なら、と言う?を感じました。