Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

インバル/都響

2024年02月24日 | 音楽
 インバル指揮都響のマーラーの交響曲第10番(デリック・クック補筆版)。わたしが聴いたのは2日目だ。SNSを見ると、1日目の演奏には辛口の意見が散見される。だが少なくとも2日目の演奏は、伝説的な演奏の誕生と思われた。

 冒頭のヴィオラの音がクリアーで、かつ潤いがある。首席の店村さんの、これが最後のステージだと思うからかもしれないが、いつまでも記憶に残りそうな音だ。その音が端的に示すように、第1楽章を通して、弦楽器の各パートの、明瞭に分離し、かつしっとりした音色が続いた。例の不協和音のところも、絶叫調にならずに(音が濁らずに)、けれども衝撃力をもって鳴った。その直後のトランペットのA音の持続は悲痛でさえあった。

 わたしはコロナ禍以前には長年都響の定期会員だった。コロナ禍以後は継続しなかったが、単発的に聴いてきた。その経験からいうと、都響は粗い演奏をすることがなくはない。だが今回のインバルとの共演は一皮むけていた。インバルも都響もよほど好調だったにちがいない。

 多くのかたがSNSで語っているように、第5楽章序奏でのフルート独奏がすばらしかった。インバルと呼吸がぴったり合い、水も漏らさぬ演奏だった。だれだろう、見たことのない人だが、と思った。松木さんという人らしい。寺本さんが退団したので、その後任のようだ。

 フルート独奏から続く第5楽章全体は、インバルと都響が一体となった、水際立った演奏になった。わたしの感じたままをいえば、神がかった演奏だと思った。すべての音にインバルと都響の眼差しが降り注ぎ、それらを慈しむ。マーラーが直面した悲劇と絶望をマーラー自身が乗り越えようとする。その過程をインバルと都響が愛おしむような演奏だ。

 わたしはいままでマーラーの交響曲第10番を、完成された第1楽章のみで聴くか、補筆版(デリック・クック版)で聴くかで、揺れていた。だが今回、演奏が良ければという前提付きだが、補筆版で聴くべきだと思った。それはドラマトゥルギーからくる結論だ。第1楽章の不協和音とトランペットのA音の持続が第5楽章で再来する。それを乗り越え、音楽が高まり、輝かしい音に到達する(インバルはそこで弦楽器のボウイングを自由にして、圧倒的な音圧を生んだ)。そのドラマがマーラーの意図したものだからだ。加えて、第4楽章末尾から第5楽章冒頭にかけて鳴り響く大太鼓は、交響曲第6番のハンマーを思い出させるが、第10番の大太鼓は第6番のハンマーの否定性がない。否定も肯定もしない。その茫洋とした中立性がマーラーの立ち直る余地を生む。
(2024.2.23.東京芸術劇場)

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