思うがままに

Step by Step

My Son あふれる想い

2010-11-04 | 映画・ドラマ

2007年

amazonより
強盗殺人を犯し無期懲役の刑で15年間服役中の男カンシク(チャ・スンウォン)は、3歳の時に別れたきりの息子ジュンソクに会いたくて1日の帰休を申請し認められる。
認知症の祖母の面倒を見る高校生の息子とのたった1日の再会・・・。
監督は、「トンマッコルへようこそ」脚本のチャンジン、息子役は「トンマッコルへようこそ」のリュ・ドックァンで“トンマッコルへようこそコンビ”が集結。
父親役には演技派のチャ・スンウォン「リベラメ」で更にドラマを盛り上げる。
監督は、リュ・ドックァンの演技について、「韓国のどこを探しても、あの年齢(21)でこの役を出来るのは、ドックァンしかいない!」と大絶賛!!
リュ・ドックァンは最新作「ヨコズナ・マドンナ」でも大注目!


「約束」に出ていたチャ・スンウォン
あの映画は良かったけれど、私的にはチャ・スンウォンがどうも好きになれない
すっとぼけた表情と演技がどうも私に嫌悪感を抱かせる
「約束」もこの「My Son」も似たようなキャラクターだから、ちょっと我慢しながら観ることに。。。

15年ぶりに逢う息子
映画を観ながら何か違和感のある息子だと思っていた
それもそのはず本当の息子は他界して、友達が代役という設定
父親は、手をつないできた息子の手の感触に唖然とする
その感触から本当の息子ではないと察知したのだ
 どうして・・・? 別れた時、息子は3才 それから15年経って それでどうして息子ではないと思ったのか?
この辺りが全く釈然としない 背も顔立ちも違うことの伏線はあったとしても、手の感触が親子を結びつけるものだろうか?
そんなこともあって盛り上がるはずのシーンが、シーンとしてしまった
泣きじゃくる父親の顔には涙が見えないし・・・・
これ 完全に父親役のミスキャスト!
最近観た「チェイサー」のキム・ユンソクならバッチリだろう!

きっと彼なら私は号泣したかも知れない

善き人のためのソナタ

2010-11-04 | 映画・ドラマ



amazonより
アカデミー賞外国語映画賞を受賞、この第一級のサスペンスはベルトリッチの『暗殺の森』やコッポラの『カンバセーション・盗聴』のように、カー・チェイスよりも人間ドラマ志向だ。
舞台は東ベルリン、時は1984年。
すべては単純な調査の任務から始まる。
ゲルド・ヴィースラー大尉(抑えていながら深く感情を込めた演技のウルリッヒ・ミューエ)は国家保安省シュタージの一員。
この手の仕事のスペシャリストだ。
有名な劇作家ゲオルク・ドライマン(セバスチャン・コッホ)とその恋人で女優のクリスタ=マリア・ジーラント(マルティナ・ゲデック)を監視することになる。
ドライマンはブラックリスト入りしている演出家アルベルト・イェルスカ(フォルカー・クライネル)のような反体制派と関わりがあることで知られているが、記録には傷がない。
だが、この実直に見える市民を監視する隠れた動機がヘムプフ大臣(トーマス・ティーメ)にあることがわかり、すべては一変する。
すなわち、この監視には個人的な理由があったのだ。
こうしてヴィースラーの共感の対象は政府から国民へ――少なくともこの一個人へと移行していく。
危険は承知の上で、ヴィースラーは特権的な立場を利用しドライマンの人生を変化させる。
ここでヴィースラーがおこなう神のような行動は些細で誰にも知られないものかもしれないが、すべてに大きな影響を与えるかもしれない。
ヴィースラー自身に対しても。
監督・脚本のフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクは単純な設定から始めて、複雑な状況と感情的な関わりへと発展させ、見事な長篇第1作を展開させる。
3つのエピローグはどう考えても多すぎるが、『善き人のためのソナタ』は全編にわたって気品があり、混乱のない映画だ。
ヒューマンドラマの傑作。


もうかなり前のことになるが、この「善き人のためのソナタ」をWOWOWで観た
静かな余韻にもう一度浸りたくて、NHK/BS2で放映されたのを録画

何といってもラストシーンがじーんと胸に染みる
郵便配達途中のヴィスラーは書店の窓にドライマンのポスターを見つけ、おもむろに店内へ
そこには著者ドライマンの『Die Sonata Vom Guten Menchen(善き人のソナタ)』という本が置かれてあった
中をめくって行くと『HGM xx/7 Geidmet in Dankbarkeit(HGW xx/7 に感謝を込めて捧ぐ)』という文字を見つける
その本を取り、店員に差し出すヴィスラー
店員は「贈り物に?」と尋ねると、『私のです・・・』と答えた
澄んだ瞳
微かに潤んでいたかのような瞳
彼の顔の静止画に私の目にも涙が滲んだ

権力を持たない、いや持とうとしない実直な生き方を見つけることこそ、善き人として認められるひとつの入口かも?