平御幸(Miyuki.Taira)の鳥瞰図

古代史において夥しい新事実を公開する平御幸(Miyuki.Taira)が、独自の視点を日常に向けたものを書いています。

奇跡ではないイエスの言葉

2015-08-19 02:34:55 | 古代史と聖書
 聖書の奥義は日本語でしか理解できない。僕のこのスタンスは、俗世間にある心霊的な解釈などではなく、ちゃんと根拠があるのです。それは、聖書に描かれていない、青年イエスの修行地が、ユダヤの地を含めた西アジアやエジプトなどではなく、日本語=非ヘブライ語系古イスラエル語圏だったからです。

 日本語で読み解くと、イエスの数々の不思議な言葉の幾つかは、奇跡でも何でも無い、ただの知恵だということが分かります。例えば、有名な「ラクダが針の穴を通る」という話。

“ 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい ”『マタイによる福音書』19-24

 これは、僕にでも出来る簡単な理科の実験で、世間ではピンホールカメラと呼ばれるものです。有名なところでは、あのレオナルド・ダ・ヴィンチがピンホールカメラの理屈で写生しています→ここが詳しい。カメラの原型であるカメラ・オブスクラがそれですね。

 このように、ピンホールカメラの理屈でラクダが針の穴を通る。こんなに簡単なのに、金持ちが神の国に入ることは難しい。これで初めて意味が通るのです。

 ラクダが針の穴を通るのが奇跡なら、金持ちが神の国に入るのはそれ以上の奇跡が必要となる。こんなにハードルを上げたら、誰も神の国に入ることは出来ない。金持ちだって、欲心を捨てて神の心に叶えば神の国に入れる。なぜそれをしないのか。イエスは金持ちを叱咤しながら、それまでのユダヤ教の祭司とは違ってハードルを下げていたのです。

 イエスはハードルを下げたから、金を集めるサンヘドリンと呼ばれる祭司集団に憎まれた。同じように、「目の梁(はり)」という言葉も日本語ならなるほどと思えるのです。

“ なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか ” 『マタイによる福音書』7-3

 この聖句を理解できる人はいますか。いたら偽善者です。大工さんが家を建てる時に柱と柱の間に渡す横棒が。こんな巨大なものが目の中にある人はいません。目どころか手に持つのさえ無理。

 これは、イエスは色ガラスを意味する玻璃(はり)の事を言ったのです。要するに、色眼鏡で見るなという意味。その証拠に、イエス磔刑の直後に生まれたローマ皇帝ネロは、エメラルドで作ったほんまモンの色眼鏡で殺人ゲームを見ていたそうです→メガネの歴史。ガラス=玻璃のメガネは紀元前8世紀から存在したのです。それが連想ゲームでとんでもないノージャンプなものに変換されてしまった。

 古日本語(非ヘブライ古イスラエル語)の玻璃→古日本語の梁→アラム語の梁→ギリシャ語の梁→ワケワカメ (;´Д`)

 こうして、イエスは難しいことを要求する、よく分からないけど有難いことを教える教師だと誤解されてしまった。何度でも書きますが、イエスは難しいことを否定して、全てに小学生でも理解できる易しい考えと導きを示した。だから、知ったかぶりして、もったいぶって、自分でも理解できていない聖句を長々と講釈垂れる、カソリックやプロテスタントの教師は偽善者となるのです。

 イエスは大工である。それは、神の国を建設する大工であるとともに、モノ作りの尊さをも教えているのです。もちろん、精魂込めて作ったものは天に通じるから奇跡を起こす。作ったものに神の霊が宿れば、契約の箱のような破壊力さえ獲得することが出来る。それは、イエスを信じる、単純で易しい行為から生まれるのです。

 チームを創り上げるのも同じ。スポーツの団体競技は和と一致の精神が必要。ポジションによって役割が違い、それは建築材の多種多様な違いと同じ。それらの個性を理解して適材適所に使うのが監督の役目。まさに大工の考えが必要なのです。監督が難しく考えても呼応する選手がいなくては機能しない。土台作りの時期には、易しさという考えが必要となるのです。そのように土台が作られたチームは収穫の楽しみが待っています。

    エフライム工房 平御幸
コメント (14)
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