人は誰でも見るだけでほっとするものがあるだろう。
私にとってはこのコーヒーカップがそうだ。
このコーヒーカップとの出会いは、まだ学生の頃。
下宿に帰る途中の骨董店の店先だった。
ころんと丸い器体に白い釉薬がとろんとかけられ、
まるで砂糖菓子のよう、、
ふっくりと彫られた梅のつぼみも私の目を引き付けた。
~ * ~ * ~
いつもそうだが、ここまでくると胸がドキドキしてきて、
ここで帰ったらもう二度と会えないかも知れない、、
自分の心の声が「ダメだ!帰ったら!」と押してくる。
そして、どうにもならなくなった時に
「これ下さい!」と口が勝手に動くようなのである。
そうやって下宿に持ち帰ってから40年も経った。
今でも傍らにあって私の心をほっこりと温めて続けてくれている。
~ * ~ * ~
なぜか骨董屋に置かれていたこのコーヒーカップ。
そもそも骨董品でない京焼の陶工さんの作品だということだったが、
そこが物との出会いの不思議なところ。
妙な所で出会っても、出会いは出会い!
出会うべくして出会った。
そう思える愛しのマイコーヒーカップである。
私にとってはこのコーヒーカップがそうだ。
このコーヒーカップとの出会いは、まだ学生の頃。
下宿に帰る途中の骨董店の店先だった。
ころんと丸い器体に白い釉薬がとろんとかけられ、
まるで砂糖菓子のよう、、
ふっくりと彫られた梅のつぼみも私の目を引き付けた。
~ * ~ * ~
いつもそうだが、ここまでくると胸がドキドキしてきて、
ここで帰ったらもう二度と会えないかも知れない、、
自分の心の声が「ダメだ!帰ったら!」と押してくる。
そして、どうにもならなくなった時に
「これ下さい!」と口が勝手に動くようなのである。
そうやって下宿に持ち帰ってから40年も経った。
今でも傍らにあって私の心をほっこりと温めて続けてくれている。
~ * ~ * ~
なぜか骨董屋に置かれていたこのコーヒーカップ。
そもそも骨董品でない京焼の陶工さんの作品だということだったが、
そこが物との出会いの不思議なところ。
妙な所で出会っても、出会いは出会い!
出会うべくして出会った。
そう思える愛しのマイコーヒーカップである。