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江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

集乳所と生産者組合

2020年01月17日 | 歴史・文化

 大正6年(1917年)、極東煉乳株式会社が札幌に工場を建設、江別の3丁目鉄道踏切付近に集乳所を開きました。
 これに前後し、小田島清治が野幌駅南側に集乳所を開設しました。
清治の息子・小田島清によれば、近在の農民たちが一人ひとり、一斗缶を背負って牛乳を持ち込んだ時代でもありました。

 極東の集乳所の開所は、地元はもとより近在近郷のからの集乳を促しました。
同9年には、江別、野幌それぞれに大日本乳製品株式会社の集乳所ができ、煉乳各社の集乳争奪戦は激しさを増して行きました。
 生産者である農民側も、効果的な飼牛(生産、販売などの効率化)のため、組織化を急ぎました。
野幌兵村農業振興会や、殖民社の野幌双蹄組合がそうでした。
大正6年、野幌兵村の鈴木勝二らが道庁補助の受け皿として畜牛組合を組織し、ホルスタイン系牝化25頭を導入しました。
 また、8年には、芝木勝栄らを中心に篠津畜牛組合が組織されました。

 篠津の飼牛は、明治40年(1907年)に芝木が混同農業の推進と、現金収入の必要から牝牛1頭を導入しました。これが始まりで、その後、村内に飼養農家が漸増し、芝木、名越直らの低床で篠津畜牛組合が創立しました。
昭和4年(1929年)現在、44戸、269頭の酪農地帯を形成、当組合の納入先は、極東と大日本乳製品の二つに分けました。
「その双方にから一人づつ馬車で運搬していたんです。これがひどかったですよ。朝3時に(家を)出なきゃならんのね。(会社は)5時から受け入れですからね。(その日の当番が)各戸に集めにくるから、(朝の仕事開始は)3時頃出ないと間に合わないんで」(『語り継ぐ江別物語』芝木勝頭・談)。
 そのほか、大正13年には、対雁畜牛組合が山田眞男を中心に立ち上がる。
越後村や美原など、各地域におき、乳牛の飼養が活発化する。その背景の一つに、いわゆる宮尾農政の展開があった。
大正10年5月から約2ヶ年、第16代北海道長官を務めた宮尾舜治は、米国の大農式粗放農法からデンマークの有畜産農法への転換を、積極的に推進しました。
道費補助制度を設け、放牧地の確保、飼養知識と技術の普及に力を入れた。
全道各地で講演会、研修会を開催しました。江別市の酪農民も無関心ではおられない。
「午後畜産講話聞きに行く。デンマークの農業経営談を聞く」(大正13年2月16日『脇豊勝日記』)。

 この宮尾農政の特色は、乳牛飼育に結びつけビート奨励を行った点にあります。
製糖工場の新設(帯広)や工業試験場(琴似)を設置し、酪農加工の研究施設に努めました。
江別における極東煉乳、大日本乳製品の集乳所の進出も、宮尾農政の流れに棹さすものでした。
「時代ノ推移ト当局ノ奨励トニヨリ、管内畜産就中畜牛ハ近年著シク 大正13年ニ於テハ馬匹頭数1,251頭、畜牛1,814頭ニシテ 前年ニ比シ馬4匹於テ差異ナキモ 畜牛ニ於テハ1割6分ノ増加ナリトス」(『江別町事務概況』大正13年)。
この年、前年に比し、搾乳戸数は30戸。生産額25000余円の増加となりました。
以降、この傾向は大正期をとおして続きました。


註 :江別市総務部「新江別市市」323-325頁.
写真:極東煉乳株式会社野幌授乳所:開設者小田島清治と家族
   同上書324頁写真5ー5を複写・掲載致しております。

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