江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

和人地の成立

2010年02月20日 | 歴史・文化
 『新羅之記録(しんらのきろく)』によると、一連のアイヌの蜂起の前までは「松前以東は陬川(鵡川)、西は與依地(余市)迄人間(和人)住する」ところでした。
 近年の余市町大川遺跡の発掘調査では、この記述を裏付ける15世紀前半の和人の住居跡や多数の国産・舶載陶磁器が発見されています。

 天文19年の講話は、それまで蝦夷地の広い範囲でアイヌと混在していた和人を渡島半島の先端部だけに集住させ、そこを和人地としてアイヌの生活圏と明確に分離したものでした(中略)。
 講話によって、交易の独占体制を確立すると共に、和人勢力の事実上の統一者となった蠣崎氏は、慶広の時代政略巧みに天下一統の豊臣秀吉に接近し、大名並みの待遇を受けることになります。すなわち、文禄2(1593)年1月、秀吉より志摩守(しまのかみ)に任ぜられるとともに念願の朱印状の交付を受けました。朱印状は、アイヌ・地下人(一般の生産者)に対する「非分」(不法行為)の禁止と諸国商船からの船役徴収権を保証したものでした。これより蠣先氏は安東氏の支配下から完全に独立し、統一政権に編入されることになりました。

(参考)
2010年 2月16日(火)「アイヌ文化の成立」
2008年10月 1日「北海道三権分立制廃止」
2008年 8月12日(火)「北海道の成り立ち」
2008年 7月15日(火)「北海道三県一局の成立」
2008年 6月30日(月)「江別最初の学校ー対雁学校」
2008年 6月28日(土)「対雁学校の教育」
2008年 6月19日(木)「飛騨屋と石狩山伐木」
2008年 6月19日(木)「蝦夷地改称2」
2008年 6月16日(月)「蝦夷地から北海道へ改称ー蝦夷地は皇国の北門」
2008年 6月10日(火)「地名解」
2008年 6月 9日(土)「元禄御国絵図」
2008年 6月 6日(金)「アイヌの遺構江別チャシ」
2008年 6月 5日(木)「アイヌ文化期のツイシカリ」

註:江別市総務部「新江別市史」59-60頁.

写真:蝦夷記
 2007年北海道開拓記念館にて許可を得て撮影、掲載いたしております。
 

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