江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

新野幌の開拓

2011年12月22日 | 歴史・文化

 20年9月17日、現在の札幌市厚別区もみじ台一帯にあった陸軍厚別弾薬庫の火薬主任であった寺崎清治ら3人が、GHQの進駐に伴い、弾薬庫の明け渡しと残務整理のため、いわばしかたなく原始林に入ったことから、新野幌の開拓が始まりました。

 寺崎らが先行し、やがて野幌原始林の約400町歩が緊急開拓地として開放され、陸軍札幌糧秣廠、同被服廠、同兵器廠の軍人、軍属、あるいは満州引揚者、近隣農家の2,3男などを中心に、22年度末現在108戸が次々と入植したのでした。

 その開墾の舞台となった原始林は、『地況は、林地の中央に略々南北に縦走する約10キロ分水嶺があり、東西に緩斜し、(略)地層は第4期洪積層で表土25センチ内外は埴土及至埴浄土であるが、下層土は10メートルに近い粘土層と次に岩石層30センチ、砂土となっており、(略)地下水は地下20メートルの深さであるため飲料水の便悪く(略)。樹木は樹高24メートル、直径25及至75センチのものが繁茂し、一町当り650石と推算されている』云々でした。

 入植者が「やま」と呼ぶとおり、農業にはなじまに土地だったのです。
当面した難題は、巨木です。
『樹木の密生で空なんて全然見えない』(寺崎清治)現地を踏んで、入植者は明治の屯田兵が天を仰いだように嘆息しました。
『とにかく、山の中で暑かったんです。周囲が林で風通しも悪かったので、私、二度くらい目の前真っ暗になって倒れたんです』(佐久間光子)。

 こうした特異な土地であったため、その開墾作業も他の開拓地とは大きく異なる面貌をみせましたが、その代表的なものが巨木の切り株を火薬で爆破する火薬抜根でした。

註:江別市総務部「えべつ昭和史」175-176頁.
写真:新野幌開拓5周年記念祭相撲大会(昭和25年頃)
 同上書176頁掲載写真を複写し、当ブログ掲載いたしております。


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