
明治41年、北海道野幌林業試験場が原始林内・トマンベツに開場しました。
この試験場が野幌・殖民社の農民に与えた「恩沢の絶大」(『野幌部落史』)は、良く知られていました。
例えば、研究し献上の人工造林地の設定は、伐木と多量搬出を伴い、冬期間の林業労働の道を拓きました。
また、時代は下るが、大正期の森林防火組合の結成以降、林内副産物の権利を与えられました。
そのため、春の竹の子、秋のキノコなどが自家の食卓はもとより市街や煉瓦工場などに持ち込まれ、家計を助けていました。
そして、生活上や営農上の個々の事柄を越え、試験場が農民に贈った恩沢の絶大のもの、それは野幌原始林の多くを試験林として残したことでしょう。
明治35年、道庁の嘱託で道内各地を踏査した河野常吉は、同年7月、園田安賢道庁長官あてに建白書を提出しました。
「道庁ノ林政ニ冷淡ナル亦嘆スベキモノアリ。当時殖民ニ適セザル山林モ、往々殖民適地ノ名ノ下解除貸付セラレ、其鬱蒼タル森林ハ売買セラレテ、山師輩ノ弄スル所ナリ、山林ノ豊富ヲ以テ聞ヘタル本道モ、前途甚ダ豊富ナラザルニ至レリ」云々と厳しく指導しました。
つまり、当時の行政(林業、環境)は、放っておくと野幌原始林も「山師ノ弄スル所」となる可能性があったのです。
試験場の設置は、その虞からの解放ともいえます。
事実、虞れはありました。
道庁は、32年の官林種別調査、35年の国有森林特別処分令により、開拓予算の有力財源の一つとして、林野払い下げ拡大を決定しています。
この延長上に、野幌原始林問題も浮上しました。すなわち、35年、北海道は二級町村制を施行しました。この時に際し、町村の基本財産の一部として野幌原始林を江別、広島、札幌に分割する計画が浮上しました。
分割すれば、早晩開墾のため伐木され、禿山に帰するのは目に見えていました。
関係農民が反対に立ち上がり、結局、計画はさたやみとなりました。
数年後の41年6月に林業試験場が開場、同年11月に同場試験林に指定されました。
それが今日まで原始林の面影を残しながら、道立自然公園野幌森林公園として伝えられる基となりました。
註 :江別市総務部「新江別市史」173-174頁.
写真:西野幌の丘の上に建つ林木育種場
同上書297頁掲載写真を複写し、当ブログ掲載いたしております。
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